<群馬県>~関西人には馴染みのない地を往く・前橋編(3日目・水と緑と詩の町・前橋町歩き⑦) | 花咲く旅路

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「前橋公園」エリアを散策し、町中へ。

 

 

 

 

 

龍梅院

1601年、「川越」から移封となった「酒井重忠」が「徳川家康」の命により建立し、

「前橋酒井氏」の菩提所とした寺で、「是字寺」とも言います。

 

寺は愛知県岡崎市の「岡崎龍海院」の別院とされており、

「岡崎龍海院」は1528年~1532年の「享禄年間」に、

「徳川家康」の祖父「松平清康」が創建したものと伝えられています。

「是字寺」の”是”には由来があります。

ある時”是”の字を左手に握った夢を見た「清康」は、「竜渓院」住職の「模外惟俊大和尚」に、

その意味を尋ねると、「この字は日下人に分けられ、これを握るということは、戦国の分裂の世が

統一される吉兆。君公により実現しなくとも孫の代までに実現する」との答えでした。

喜んだ「清康」は、1530年、「岡崎城」下に「模外禅師」を開山とする「満珠山是字寺龍海院」を建立。

徳川氏には既に「大樹寺」という菩提寺があったため、家老の「酒井正親」に外護を命じ、

以降は「酒井氏」の菩提寺になりました。
 

「前橋龍海院」の境内には、

幕府大老職を勤めて“下馬将軍”といわれた4代「忠清」の建立という「本堂」のほか、

「山門」、「鐘楼」、「位牌堂」、「禅堂」、「開山堂」などがあります。
境内南西隅には、「酒井氏」と、「酒井家」の分家「伊勢崎藩主」の初代と6代の広い墓所があります。

酒井家は1749年に「姫路」へ転封となりましたが、15代の幕末まで墓参に訪れたと云います。

 

 

 

「龍海院」入口左右には、    仁王像      が建っています。

 

 

 

 

山門                      鐘楼

 

 

「山門」

1818年~1830年の「文政年間」に造営されたもので、三間一戸、八脚楼門、入母屋、桟瓦葺、

外壁は真壁造り板張り、上層部左右には花頭窓、高欄付き、「是字寺」の扁額、

下層部左右には「増長天王像」、「毘沙門天王像」が安置されています。
当初、回廊がめぐっていた様子が残り、1831年~1845年の「天保年間」の頃

取り外されていますが、「龍海院」の格式の高さを物語るものです。

 

 

         毘沙門天像             増長天像

    

 

 

 

 

 

庭園                     水琴窟

 

 

 

 

 

本堂                     酒井家位牌堂

 

 

「本堂」

1818年~1829年の「文政年間」に「酒井忠清」によって再建されたもので、

木造平屋建て、入母屋、瓦葺き、平入、正面1間唐破風向拝、桁行8間、

外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、県内の寺院としては有数の規模の本堂です。

内部には須弥壇を設置しています。

 

「酒井家位牌堂」

西面と北面に位牌壇があり、代々の藩主と奥方の位牌が安置されます。

御霊屋の渡廊下には、檀家の位牌棚が並んでいます。

 

 

 

 

弥彦神社                  童子六地蔵

 

 

 

 

庚申塔、毘沙門天など。                 良寛像  南無十一面観音菩薩像

 

 

 

 

陣屋杉跡

 

1567年10月、「武田」、「北条」5万の大軍が「厩橋城」を攻めた時、

時の領主「上杉謙信」がここに陣屋を置き、この杉の上から敵情を偵察したと伝えられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

酒井氏歴代墓所

広さ3800㎡の敷地に、奥に初代~8代まで、

手前に姫路に転封した9代~15代の墓石が並んでいます。

                                 

 

 

 

初代藩主「酒井重忠夫婦の墓」

 

 

3代藩主「酒井忠行の墓」                 5代藩主「酒井忠挙の墓」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国道17号を歩道橋で越えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

桃井小学校

 

 

群馬県で最初の小学校「第一番小学厩橋学校」として創立した学校で、

第42代内閣総理大臣「鈴木貫太郎」、最近ではコピーライターの「糸井重里」を輩出しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

矢田川   の   小水力発電機   があり、電気自動車の充電に使用されていまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前橋カトリック教会

 

1905年(明治38年)にフランス人司祭が「天主公協会」を立てたのが始まりです。

当時の司祭「内野作蔵」は”前橋一高い建物”として、

1932年(昭和7年)に現在の聖堂を建設しました。

県庁東南方に位置し東面して建ちます。

正面左右に下部四角、上部八角の塔を立上げた双塔形式の会堂で、内部は3廊式とします。

身廊部天井を8分ヴォールトとするなどゴシック式を基調としますが、

身廊部の簡明な壁面構成や陸屋根状の側廊部など、モダンな取扱いも特徴。

第二次世界大戦の前橋空襲で被害は受けたものの、

奇跡的に焼け残った前橋の歴史を伝える貴重な建物です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前橋ハリストス正教会

 

 

「八端十字架」という特徴的な十字架の教会。

この十字架は「ロシア正教会」や「ウクライナ正教会」で頻繁に用いられます。

1875年(明治8年)に伝道が始まり、3年後には教会が設立されました。

1878年(明治11年)に建立された降誕聖堂のイコノスタスのイコンは、

1945年(昭和20年)の戦災で焼失し、現在のものは1974年のものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

前橋聖マッテア教会

 

 

 

 

 

    

 

「イギリス国協会」の流れをくむ「聖公堂」の教会。

名前の「マッテア」はキリストの12使途のひとり。

1889年(明治22年)2月24日の「聖徒マッテアの日」に、

アメリカ人宣教師が伝道、2年後に「前橋聖公堂」が成立しました。

1902年(明治35年)に「前橋マッテア教会」と改称しました。

若き日の詩人「山村暮鳥」は、この教会の英語夜学校に通っていました。

現在の聖堂は1952年(昭和27年)に再建されたものです。

 

映画「ALWAYS三丁目の夕日’64」で「堀北真希」が挙式したシーンの撮影場所に使用されました。

見たことないケド。

 

そういや、「前橋」は風光明媚な場所が多いのに人が少ないので、

よく映画の撮影や、CMの撮影に使われると、地元の人が言ってた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふたたび「前橋公園」方面に向かい、

るなぱあく          へ。

 

 

 

 

 

 

正式名称は「前橋市中央児童遊園」で、1954年(昭和29年)に開園した前橋市立の遊園地。

2004年(平成16年)、市民公募によって「前橋るなぱあく」の愛称が付けられました。

「萩原朔太郎」の詩集「遊園地にて」において、

「遊園地」という言葉に"ルナパーク"とルビがふられていることに由来します。

コンセプトは”にっぽんいちなつかしいゆうえんち”です。

入園料は無料で、大型遊具がひとり1回50円、木馬と小型遊具は1回10円。

日本一安い遊園地と云われます。

 

ゴールデンウィークなので、家族連れで賑わっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

17時頃になりました。

 

 

そろそろホテルの方に向かっていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スズラン

 

前橋のご当地百貨店です。

1952年(昭和27年)創業。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この日の散策はこれにて終了!

 

17時過ぎにホテルに戻りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この日は、前橋の千代田町で夜の宴だったので、

 

シャワーを浴びた後、飲み屋さんに行くついでに、もう少し散策しましたニコニコ

 

 

 

 

 

 

             前橋の繁華街を往く。           弁天通り商店街

    

 

 

 

「弁天通り商店街」は昭和レトロな雰囲気のアーケード街。

パンフレットには「妖怪ウォッチ」のCM撮影に使われたとありました。

 

 

 

 

 

 

 

         呑龍飲食店街            呑竜仲店

    

 

こーいうのたまりませんね~爆  笑

まさに昭和の映画で使えますね~

戦後の復興計画でできたらしいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

商店街にある、    大蓮寺

 

 

 

 

「厩橋城(前橋城)」を守護するために、鬼門にあたる「利根川」河畔の柳原の

「虎が淵」(現在の前橋公園、臨江閣付近)に1505年に創建されたと伝えられています。

当時、このあたりは「利根川」が入り江のようになって流れ、

増水の時にはうずを巻くために「虎ケ淵」と名付けられました。

厩橋初代藩主「酒井重忠」は、16161年に「虎が淵」の守護と城下町の安全を祈願して、

水の神様、川の神様である「弁財天」を祀ったと云われています。

1650年、現在の地に移り、現在の本堂は1976年(昭和51年)、

弁天堂は1990年(平成2年)に再建されたものです。

寺の裏に「弁天様」が祀られ、参道周辺の町並みを「弁天通り」と言うようになったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熊野神社

 

 

創建年代は不詳。 

「出雲国八束熊野」からの勧請と云われています。

古くから三本足の烏「八咫烏」が神社の使者として祭られ、

商売繁盛、五穀豊穣、合格祈願など、大願成就のご利益があると言われています。

市内では、「酉の市祭り」が開催される場所として知られ、氏子、前橋市民に親しまれています。

 

 

 

 

         笠欠け三猿塔             欅和合

    

 

「笠欠け三猿塔」

”見ざる 聞かざる 言わざる”でお馴染みの三猿は、

”物事を軽率にとらえず大切なことは心にしまう謙虚な気持ちで日々過ごしましょう”

と言う戒めを三匹の猿に託したものと云われています。

この境内にある「三猿塔」は、

地域の人々の融和を図るため「熊野神社」に江戸時代に奉納されたものと考えられます。

「前橋空襲」により塔の上部を欠損しましたが、戦火を逃れて、

「熊野神社」に集まった人々の身代わりになり守った塔として、

護身・開運のご利益ありとして信仰されています。

 

 

 

 

 

三ツ足八咫烏石

 

太平洋戦争における空襲により社殿は焼失してしまいましたが、

氏子の熱意により再建を果たしました。

しかし、長い年月の経過により老朽化し1992年(平成4年)の台風により、

「奥の院殿」が崩壊してしまいました。

それを機に大修理を行ったところ、戦争の砲火により傷んだ基礎の一部を改修していた折、

不思議な礎石を発見した宮大工が、手拭きで拭き清めると、

礎石に三つの鳥の足跡がくっきりと刻みつけられていました。

この出来事に立ち会った宮司は、「熊野神社」では古くから三本足の鳥が神の使者として

お祀りされており、大酉祭「大酉さま」と称し商売繁盛、五穀豊穣、合格祈願など、

大願成就のお祭りを行い多くの参拝者があることから、

この礎石に願いごとを託す「御神拭」の行事を以って参拝者の願いがかなうように祈願しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それではそろそろ飲み屋さんへ♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく~)