<京都府>~2014年・京都の桜散策②(京都市内) | 花咲く旅路

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憧れの「十輪寺」の桜を13時過ぎまで愛でた後、
 
バスで阪急東向日駅まで戻り、京都市内に出てきました。
 
 
 
 
 
雨は降ったりやんだりの天気。
この日、1日こんな感じでしたね。
 
 
 
14時30分に河原町着。
 
 
 
 
 
屋町   高瀬川  
 
桜風情桜桜桜

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鴨川    桜風情桜桜桜
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これ、
なんちゅーゆるキャラでっか!?
四条大橋   の袂にいてましたで。
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祇園白川     の桜も見ごろで。            川端通り    もキレイでした
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雨なので人出も少なめでした。
 
 
 
 
 
 
三条大橋                   高札場   このあたりにあったのですね~
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石柱                     佐久間象山 大村益次郎遭難の地
三条大橋は、豊臣秀吉の命で1590年に、          高瀬川沿いに建てられた碑。
日本で初めての石柱橋として架けられた橋です。      ここから北へ約一丁いったところに
この石柱は当時のものだとかビックリマーク                遭難の地があります。
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1864年7月11日の夕刻、馬に乗って通りかかった佐久間象山は、
刺客に襲われて斬られ即死しました。
佐久間象山は信濃の松代藩士で、洋学・砲術を学び、開国論を唱え、
勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰ら多くの俊才を教育した人物。
この時は幕府の命で上京し、海防の相談にあづかるとともに公武合体策をす進めていました。
時は池田屋事件の直後で、いきりたっていた攘夷派は、学者象山の説を受けつけませんでした。
 
佐久間象山が遭難して5年後の9月4日、
この地の東側にあった旅宿の奥座敷二階で大村益次郎が斬られ、
その傷がもとで益次郎は同年11月5日大阪の病院で没しました。
大村益次郎は周防国の生まれ、家は医者でしたが、医学とともに西洋兵学を学び、
兵学の第一人者となって幕末の長州藩や戊辰戦争に活躍しました。
ついで明治政府の兵部大輔となり、封建軍隊にかわる近代兵制の創立に努力しましたが、
そのため、不平派士族に襲われたのでした。
 
 
 
 
 
 
そして、三条通、現在は居酒屋となっている場所が、
池田屋騒動之地碑
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1864年6月、在洛の長州・土州など諸藩の討幕派が謀議中に、
   新撰組に急襲され乱闘の結果、討幕派7人、新撰組3人が死にました。   
この事件が討幕機運を高めたのです。
”寺田屋”と共に維新の史跡です。
今ある居酒屋は「はなの舞」です
 
 
 
 
 
 
 
 
 
木屋町通り      を上がります。
 
 
 
 
高瀬川  を運行する「高瀬舟」の荷物の
あげおろしをする船溜所を”船入”と云いました。
四之船入跡                 御池通り
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お、
幾松    さんです。
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維新の三傑の一人である「桂小五郎」と三本木の芸妓であった「幾松」の寓居跡。
現在は料理旅館。
国の登録有形文化財に指定され、
「幾松の間」や小松宮彰仁親王が愛用、三条実美命名の茶室が、
当時の面影を残し保存されています。
 
 
 
 
 
 
 
一之船入跡
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ここも桜、見事でした!!
 
ここまできたら「やました」さんに寄りたいところですが、
この日は他のお店を予約しておりますので、まだまだぶらぶらゆるりと京都市内散策です。
 
 
 
 
 
島津製作所 創業記念資料館
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島津製作所創業の地にあり、木造2階建ての建物は、創業者の初代・島津源蔵が居住し、
約45年間、本店として使用したものです。
館内には、創業以来、製造販売してきた理化学器械、医療用X線装置や産業機器をはじめ
事業活動に関連する歴史的な文献・資料などを常設展示し、
島津製作所の歩みと日本の近代科学技術の発展過程が見られます。
平成23年、創業135年を記念してリニューアルし、ストーリ・テーマに沿った展示、
創業当時の雰囲気とその歴史を感じられるるような空間へと生まれ変わったそうです。
 
古民家を彩るステンドグラスが美しかった。
 
 
 
 
京都、ぶらぶら散策してると、
いままで知らなかったものをたくさん発見出来て楽しいです♪
 
 
 
 
 
善導寺
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1558年~1569年の永禄年間に「然譽清善和尚」によって六角堂の付近に創立されましたが、
1788年の大火にかかり、この地に移りました。
境内には、嵯峨釈迦堂の本尊を模した1278年銘の「釈迦三尊石仏」があります。
また2基の燈籠があり、ひとつは書院庭に鎌倉時代の白大理石の石幢を燈籠に改めたもの、
他のひとつは前庭に、火袋の面に茶碗、炭斗、火鉢、火箸、茶釜、柄杓、五徳が彫刻されていて、
世に「善導寺形燈籠」と呼ばれ、茶人の間にこれを模して愛玩するものが多い燈籠が建っています。
 
”お寺の中のエステティックサロン”と掲げられていたのも興味深い
 
 
 
 
 
 
木戸孝允旧跡                明治天皇行幸木戸邸
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維新の指導的政治家であった木戸孝允(桂小五郎)は明治政府高官となり、
鴨川畔の近衛家邸を買い取り京都別邸としました。
旧宅跡は「いしちょう」という旅館になっています。
1877年(明治10年)、
京都別邸で危篤に陥った木戸を京都滞在中の明治天皇が見舞いに訪れました。
木戸はこの後、死去、この邸には孝允没後その子忠太郎が住み、
1943年(昭和18年)京都市に寄贈され、現在は市職員厚生施設となっています。
 
 
 
 
 
 
 
舎密局跡                  十津川屋敷跡地
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「舎密局」とは、明治維新期における化学技術の研究・教育、および勧業のために作られた
官営・公営機関。
1869年(明治2年)に大阪、翌1870年(明治3年)に京都にそれぞれ設置されました。
「舎密局」の「舎密」とは、幕末期に広く使用された、
オランダ語の”chemie”(化学)に対する当て字であり、
当時、実生活に対する洋学(科学)の応用という点で化学が特に重視されたことに関わる命名です。
 
「十津川屋敷跡」
大和国吉野郡十津川村(現奈良県十津川村)の郷士は、1863年、禁裏守護を命じられ上洛しました。
禁裏御所に近接した下切通新烏丸に詰所を建設し、明治に任を解かれるまで、この地を拠点に、
禁裏の門や加茂社などの警衛にあたりました。
 
 
 
 
 
 
新島襄旧邸
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同志社大学の創立者である「新島襄」と、大河ドラマでも有名になった妻「八重」の私邸です。
この場所は同志社英学校が開校した際に仮校舎として借家した「高松保実邸」の跡地で、
新島襄のボストンの友人「J・ M・ シアーズ」の寄付によって建てられました。
旧邸の外観はいわゆるコロニアル様式の洋風で、構造のベースは和風寄棟住宅です。
間取りは日本的な田の字型であり、すべて真壁造りとなっています。
夏を快適に過ごすために床が高く、三方にべランダをめぐらし窓には鎧戸をつけ、
白い壁面に茶褐色の木部を見せる簡素な2階建住宅です。
 
外から眺めました。
 
 
 
 
 
 
 
京都らしい住所の看板。
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(つづく~)