AI によると…
太平洋戦争(第二次世界大戦全体)の日本人の戦死者は約310万人で、
そのうち軍人・軍属は約230万人(全体の約74%)、
民間人は約80万人(全体の約26%)とされています。
特に、参加兵力が約63万人と少ない「 パラオの戦い」では、
7割以上が戦死または戦病死するという高い犠牲率を示しました。
…とあります。
そして、その戦死者の8割が餓死や病死だそうですよ…
また…
>戦没者240万人のうち遺骨が帰っていない人数が112万4000人と47%にのぼっている。
特にフィリピンや旧満州、中部太平洋などで日本に帰還していない遺骨が多い。
⇒
(--)b ここの資料によれば中国の戦争犠牲者は、1000万人となっている。
>まず軍人軍属の被害についてみると,
陸軍の死亡者は戦死者と戦病死者とを合わせて35万人,
海軍の死亡者は所在不明者をふくめて15万 9千人となっています。
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それでは、今日の動画…
東京に他国のような国立の近現代史博物館がないという愚かさ…
それも…言論封殺国民が、日本には鬼のようにいるからです。
クレーマーですな…
それもほぼ「感情論」オンリー…
めんどくさくなるので、その話はタブーになる。
だから、
歴史にしろ、人権にしろ、教育にしろ…
いろいろと日本では歪んでいる。
「学校で教えられたこと」は、そういうことで「ウソばかり」になる。
政治家が嘘つきでないと務まらないというのも、
この国民感情、国民の習性に由来しているのではないか?
⇒
>「年次別の戦死者数を公表している岩手県のデータなどから推計すると、
軍人・軍属の87.6%は1944年1月以降に亡くなっていました。
問題はその死に方です。
戦争ですから、多くの人は戦闘で命を落としたと考えるでしょう。
でも、日本軍は1944年以降、戦病死者が多く、
ある中国の連隊の史料では
戦病死者が戦没者に占める割合は73.5%にもなりました。
実際に全戦没者で見れば、この数字より多い可能性が高いです。
その戦病死の中身も、
栄養失調による餓死、あるいは栄養失調の果てにマラリアに感染というケースが多い。
餓死の比率は61%や37%などの説があり、確定はしていません。
ですが、おおむね半数が餓死者だったと言っていいでしょう」
>前線部隊に軍需品が届く安着率は1942年の96%から、1943年は83%、1945年は51%に低下。
山が連なるインドとミャンマーの国境地帯や、
1944年3月からのビルマ(現・ミャンマー)のインパール作戦では死者が相次ぎ、
日本兵の遺体で埋まった撤退路は「白骨街道」「靖国街道」と呼ばれた。
ただ、
日本兵が飢えていたのは、補給路が途絶えたからだけではなく、
そもそも兵士の命を重視していない軍の方針があった。
(--)b つまり、戦没者の大半が、日本軍によって563れたのだ。
>千葉哲夫という元海軍の男性は戦後、アメリカに行き、
戦争当時の潜水艦を見て、ショックを受けた。
日本の艦船ではすし詰めで、寝る場所も食べる場所も一緒が当たり前だったが、
アメリカの潜水艦では居住性に配慮されていた。
千葉はその時の驚きを『鎮魂』に記している。
<日本にはどこか人間軽視の思想があって、その点が米国とは格段の落差があったと思います。
そのことが犠牲を大きくしたものであらうと考えます>
(--)b いまの企業や学校・地域社会もそうでしょ?
個人の都合を軽視しすぎていますよね?
自衛官や消防隊員の待遇、公務員の職場環境も「予算ありき」…
冷房が普及してきたのは、ごく最近です。
だから、「はたらき(かせ)方改革」も必要なことですが…
ベースに日本人の歪んだ思考があって、ろくな結果になっていない。
>操縦士の扱いについても粗雑だったという。
パプアニューギニアやラバウルなど南方戦線の飛行場に配備されたパイロットには、
マラリアなどに罹患する人もいた。
医療や栄養状態も不十分なため、連日の戦闘に耐えうる体力もなかった。
そうした病兵に非人道的な扱いをした上官がいたと吉田氏は言う。
「『ブドウ糖だ』『元気が出る』といってヒロポン(覚醒剤)を与えていた疑いが強い。
そうして興奮させた状態で『特攻』させた。
そんな方法で、ベテランのパイロットさえ使い捨てにした。ひどい人命軽視です。
一方、アメリカは戦闘機が撃ち落とされると、パラシュートで脱出した兵隊を
潜水艦や艦船がレスキューし、最後の一人まで助ける。
それを見ていた日本兵は、この差は何だろう、とショックを受けていた」
(--)b 新自由主義経済以前から、日本の伝統は人命軽視・使い捨て。
>さらにひどかったのが「処置」だ。
処置とは、上官の命令による傷病兵の殺害のことだ。
「戦闘に敗れ、負傷した兵士は、捕まると捕虜になるおそれがありました。
それを防止するために、上官は足手まといの兵士に自決を促し、
応じなければ射殺、もしくは衛生兵などが殺害したのです。
治療を装い、『これを注射すれば熱が下がる。元気が出る』と
うそまでついて毒薬を飲ませたり、注射したりしました」
激戦だったガダルカナル島の参謀次長が撤収前に発信した報告電に、こんな一節がある。
<単独歩行不可能者は各隊とも最後まで現陣地に残置し、
射撃可能者は射撃を以て敵を拒止し、
敵至近距離に進撃せば自決する如く
各人昇汞錠(しょうこうじょう。強い毒性を持つ殺菌剤)二錠宛を分配す>
(『ガダルカナル作戦の考察』)
>
「なぜこのような真似をしたのか。
1941年1月8日に東条英機陸軍大臣が発した『戦陣訓』が大きな理由です。
それは『生きて虜囚の辱めを受けず』と捕虜となることを禁じていたのです」
1935年3月、日本政府は「俘虜の待遇に関する」ジュネーブ条約(1929年。赤十字条約)を公布。
その第一条には、撤退に際して傷病兵を前線から後送できない場合には、
衛生要員をつけて、敵の保護に委ねることができるという一節がある。
傷病兵が捕虜になることを容認する内容だ。
だが、実際の戦場では「戦陣訓」が基本となっていた。
こうした非人道的な処遇は、
生き残って復員した元兵士たちを苦しめることになった。
(--)b 3・11その他で、「緊急医療」(トリアージ)で、
後に心を病む隊員もすくなくないという。民間人でも同様だ。
しかし、戦地で起きたことは、もっと「罪悪感」を募らせる性質のものだった。
『火垂るの墓』を岡田斗司夫さんが解説しているが…
なぜ、「蛍」ではなく、「火垂る」なのか、わかりますか?…と問うている。
そして、「これは反戦映画じゃない」と製作者の高畑勲さんが言っていたことの意味。
…だからこそ…
戦時のエピソードをことさら「美談」にしたがる連中にわたしは嫌悪するのである。
そして、さらに…やむなく戦争にでもなったときには…
あなたは、なんのために、だれのために4ぬつもりなのか?
そもそもそんな覚悟があるのか?
弱い犬ほどよく吠える…
「ポチ」を言い間違えたのが「ホシュ」ではないのかい?