イエスが教えを説いたにもかかわらず、
ローマ国教となってからのキリスト教は、イエス以前の征服宗教に回帰していった。
以降、征服した人民を奴隷として使役するための、洗脳宗教としての役割を担った。
だから、
現実のキリスト教において「信じれば救われる」というのは…
「いい子にしていれば褒めてもらえる」のごときものであり、奴隷主への服従を説いているのだ。
だから、それは、
仏教などのように摂理を説いたものではなく、単なるストーリーにすぎない。
「奴隷主に気に入られれば、報酬がもらえる」とか…
「しっかりはたらいて手柄を立てるなり、認められれば待遇がよくなる」とか…
それは、慰安婦なり、花魁なりを働かせ続ける口実に等しいものである。
「努力すれば報われる」とか、「一発当てれば金持ちになれる」とか…
「アメリカンドリーム」が、まずそうである。
「信じれば(あの世で)救われる」というのも、
「クリスマスにはサンタがプレゼントをくれる」みたいな話ということである。
仏教の場合は、「この世は一切が苦である」と、まず説く。
俗民のことばでいえば、「この世に神も仏もいるものか」という意味である。
この世は理不尽で、「救い」など、どこにもないのだ。
だが…
ちょっと、モノの見方を変えてみなさい…
人間のちっぽけな考え、分別から、一度離れて、「ありのままに」みてみなさい。
世界は、まったく違って見えてくる。
あなたが、「当たり前」だと思っていたもので、ひとつも「当たり前」のものはなく、
すべてが「ありがたい」ものであり、ことごとくが「奇跡」なのだと。
その境地に達することができれば、苦は滅され、もっともっと自由に生きられる…
そして、その自由な精神に「神」や「仏」は宿り、実在となる。
それは、人間の自由意思によって「みえるもの」になるのである。
それは、ちょうど役者が演じると、そこに本当にものがあるかのようにみえてくるのと似ている。
つまり、いま現在の現実のキリスト教徒にとって、
事実上の奴隷調教宗教であるキリスト教にとって、
教義は「お伽噺」にすぎず、「陰謀論」と同じストーリーにすぎない。
「信仰」とは、「陰謀論者」のように「話を真に受けて信じること」なのである。
こんなものが、はたして「宗教」と呼べるだろうか?
ただ奴隷主にとって都合のよいストーリーを信じ込ませることが、「宗教」だろうか?
ただ、アメリカでは、
プロテスタントの勤勉によって、資本主義化で、いくつか「ストーリー」が現実化した。
「自由経済」には、そうした「ストーリー」が実現するダイナミズムがあった。
それで、「ストーリー」にも信憑性が出てきてもいる。
…とはいえ、
キリスト教の奴隷調教宗教としての性質まで変わったわけではなかった。
キリスト教の本質は、
明治の日本が学び取り、「国家神道」の形に結実させたので、よくわかるはずだ。
天皇は現人神であり、その命令は絶対…そういう「おやくそく」になっていた。
「現人神」がいないだけで、教義や権威はそのまま同じなのがキリスト教である。
だから、そもそも民主主義とは相容れないのである。
ローマは、征服した人民に改宗させて、「神」を奪った。文化を奪った。
キリスト教は、「神殺しの宗教」だった。
人々に、奴隷になれと説く…
だからこそ…「神は死んだ」と実存主義者は宣言したのだ。
キリスト教は、ただのインチキ、ただの「お伽噺」、ただの「陰謀論」…
「ストーリー」に過ぎぬもの…
それは、自分たちの精神を縛る鉄鎖にしかならない。
そもそもイエスは、そんなものを説いていない。
イエスが否定したインチキ司祭やペテン法学者が、キリスト教を乗っ取って「陰謀論」にしてしまった。
「ストーリー」としての「地獄」や「天国」ではなく…
ありのままの世界に、「みえてくる」世界にこそ目を開くべし…
仏教が説いたように…
自燈明法灯明…
ブッダは説いた…
獅子のごとくあれ…サイの角のように、ひとりで歩め…
(超人となれ、自立した個人の自由意思をもって歩め…それこそが人間だ!)
まさに、それは、実存哲学を説いた者たちと、そっくり同じなのである。





