「東大話法」とか「霞が関文学」とかが話題になったが、権力や権威は常にウソをつき、サギをはたらいている。
そして、新聞やテレビなどの「報道権力」もしばしば同じようなことをやって人民を欺いている。
しかし、人民はといえば、常習犯の被告人の言うことを常に真に受ける裁判官のごとき仕事しかしていない。
人民自身が、民主主義を破壊しているのである。
新聞もまた、独自の「話法」、「文学」を日々行使している。
「朝日話法」、「朝日文学」、「読売話法」、「読売文学」があるのである。
たとえば、「わがまま」を「個性的」とか
自己肥大感」を「自分らしさ」とか、本来の意味とは違う意味にすり替える。
「多様性」というのも、事実を誤認させるように日々用いている。
きょうの読売紙面の「家族の多様性」というのが、まさにそれにあたる。
いまや、「家族って何だ?」と問わねばならないほど「家族」は「解体」し、「崩壊」している。
それを読売は恰も「個人の自由」や「ゆたかさ」の延長にあるかのように述べて見せているのである。
メッセージボードにも貼りつけてある、この本を万民が読むべきだ。
バブル崩壊以降…
「選択の自由」だの「多様性」だの「女性の社会進出」だのとそそのかされて気がつけば…
人々の暮らしざまは、古代ローマの奴隷そっくりになっている…
奴隷は、簡単に「家族」なんぞもてなかったし、「私有財産」も「自由民」としての権利も、ほとんどなかった。
古代ローマそっくりの情景が、あたりまえのように目の前に展開しているというのに…
「多様化する家族」…
「家族ってなんだろう?」…
などとノーテンキなことを書き散らしているのである。
こんなふざけたものを読まされて怒らない国民というのも、バカの極みであろう。
「怒ったところで、しかたがない」…
やあ!…それはそのとおりだ。
だが、こいつらが「報道の自由」などと抜かしている現状を放置していることは、どうなんだろう?
……
世界大戦後には、さまざまな非民主主義が「民主主義」として人々に流布された。
民主主義とは何かを、大衆は理解していなかったので、いまなおそうしたプロパガンダに洗脳されたままである。
人民や運動家が、民主主義ではないものを「民主主義」として論じたり、運動するならば、その害悪は果てしなく大きい。
人民や運動家こそが、民主主義を破壊する一大勢力、尖兵となってしまうのである。
人民や運動家こそが「民主主義の敵」になってしまっている今日の黙示録的世界情勢…
警察が、ドロボーであり、ヤクザみたいな世界である。
いまや、人々はそうした異常さに違和感すら覚えないほどに堕落し、劣化している。
もう「生きている」というだけで、迷惑な存在に成り果てているのだ…。
きょうは、「報道の自由」というニセ民主主義について述べよう。
民主主義というのは、無力なる人民が、権力を監視し、正しくジャッジすることで成り立つ。
しかし、ほとんどの者が、そうした主権者としての義務を果たしていない。
ただ、自分たちが「正義」と思うことをわめきたて、徒党を組み、実力行使して自ら権力を振るうようになっている。
民主主義というのは、自分たちも権力となった瞬間から監視の対象となり、ジャッジの対象となるのだが、
人民の多くは、そのことを全く理解していないようだ。
とりわけ、なかでも酷いのが「ジャーナリズム」である。
「ジャーナリスト」は、自分たちも「報道権力」であり、「報道暴力」、「報道犯罪」を重ねている主体であることを忘れている。
「報道権力」も「捜査権力」も、「人民の味方」ヅラしたがり、「正義の味方」を気取る…
ネトウヨやアホサヨクが、自分たちを「正義のヒーロー」のように考えているのと同じ錯覚、同じ病に囚われているのだ。
もしも、「報道の自由」などというものが認められるのであれば、「捜査の自由」も認められねばなるまい?
「権力の自由」、「暴力の自由」というのは、民主主義であろうか?自由社会であろうか?
それらは、公共の福利に準ずる場合に限り、個人の権利を極力侵さぬように配慮しながら、
「法にしたがって必要最小限」行使されるべきものであろう。
愚かなる大衆は、しばしば報道権力や捜査権力、ときには徴税権力まで「正義を実現する神」のごとく崇め祀る。
もう、その時点で「民主主義」は、死んでいるのである。
