性犯罪を裁くのは、なぜむずかしいのかは、すでに最近の過去記事に書いた。
それを推定無罪もきちんと理解していない無法の報道機関が「解説」するから、議論は常にあさっての方向を向いていく。
ここへきてNHKが、被害女性にインタビューするという”暴挙”に出た。
慎重視する向きには「冤罪の恐れがあるから」と、さらりとしか触れていない。
これでは裁判官が何を恐れて有罪判決を躊躇したのかまったく伝わらない。
我が子をレイプするような鬼畜な親は、死刑どころか、豚コレラのブタといっしょに殺処分するくらいが相当であろう。
しかし…それを法治国家でやるとなると多大の困難が伴う。
いまよりも、さらに将軍様の国みたいになることに日本国民は
それでは…と…
確実に処罰するなら、「性行為があった」というだけで処罰する必要がある…
…が、それは中世への逆戻りだ。
戦後になって、男女共学になって、恋愛の自由だのフリーセックスだのと浮かれてきた…
…その時代を全否定することになるだろう。
本当に国民は、それを望んでいるのか?
しかも、実は、そうしてみたところで何も事態は改善しない。
なぜならば、行為だけで処罰するとなれば、カップルを双方平等に罰することになるからだ。
インドや中東では、レイプの被害女性が家族や地域から犯罪者扱いされて、最悪殺されるところもあるという。
(日本も時代を遡れば似たようなときがあったのだ)
それではあまりにも…ということになると…
せっかく「合意の有無に関係なく処罰」と決めても、どちらが加害者でどちらが被害者かを判断せねばならず…
結局は「合意の有無」を判断しなければならなくなる。
つまりは、”堂々巡り”、将棋でいえば”千日手”で、事態は何も改善しない。
身内にも「暴力だ~」と騒いで茶番を演じる女たちが実際にいる。
通報して警察に保護されて被害者ズラしているのだ。
さらには、一度は応じておきながら「無理やりされた~、証拠はこれだ~」とやってるのもいるし、
それで男をゆすってカネ巻き上げて、中にはそれが行くとこまで行って殺されて…なんて例も過去には報道されていたのではなかったか?
そうしたハニトラ型のレイプでっちあげや、離婚裁判などで「暴力が」と針小棒大に大騒ぎしている例も多々ある。
NHKは、なぜ「冤罪の可能性」とだけしか触れないのか?
とても、不公平であり、公正を欠いている。偏向報道と言ってもよい。
さらには、レイプの被害者は女性とは限らない。女性が男性をレイプするような場合もある。
そうした男性被害者は女性の場合よりも立場が悪く、「弱者」であり、「泣き寝入り」させられている。
男性が男性を、女性が女性をレイプする場合もあるのだが、まったく議論のネタにもなっていない。
こんな状況で、裁判を議論して何になるのか?
何度も言ってきているが、裁判で最も難しいのは”事実認定”であり、明確にシロクロ判定できることなど基本的にない。
それが性暴力の場合、「合意の有無」などが問題になってくるから、さらに大変なのだ。
「合意の有無」などという「こころのなかのもの」(恋愛では契約書とか作らないモンね?)をどうやって”立証”するのか?
恋愛経験者ならだれしも経験していよう?
当事者でも、相手がOKなのかどうなのか、わからなくって、ものすごく悩んだはずだ。
しかも、それは気分に支配され、簡単に覆ったりする。
当事者でも「わからない」ようなものが、どうして第三者の裁判官に判断できようか?
結局、超能力者でもない裁判官は「わからない」がホンネであるから、「推定無罪」にしたがえば「有罪判決」は出せない。
「わからない」ときは「無罪を宣告しなければならない」というのが刑事裁判のルールだから。
裁判で解決しようとすれば、
お互いが「レイプされた!被害者は自分の方だ!」という争いでなっても、
つまり、お互いの主張がことごとくウソまたは勘違いという状況でも、きちんと裁けねばならない。
だが…はて…、こんなことが原理的に可能なのか?
裁判で解決しようとすればするほど…
結局は、単に息苦しい性抑圧社会を作ってしまうだけではないのか?
「被害女性を守れ!」という似非正義だけが叫ばれている。(男性被害者やでっち上げ被害者のことなど完全スルー)
その代償に「こころのなかのもの」を裁判官が自由に判断できるようにすること、
つまり、”人間の尊厳を放棄する”ことを認めるのか否かということには、まったく注意が向けられないという悪質な詐欺である。
何度でも言うが、こんなものは、裁判では解決できない。裁判で解決しようとするべきものではない。
裁判沙汰になっている時点で日本社会の敗北なのである。
それを裁判になる前段階でどうすればよいかという話ではなく、判決の是非ばかりに話が集中する。
どこまで”スマホ脳”、”ネトゲ脳”になってしまっているのか?
有罪にしろ、無罪にしろ、被害女性とその家族の将来に明確な”希望”が描けているようにはみえない。
本来、報道の役割というのは、こういうときに、この社会問題の解決を国民に促すことのはずである。
ところが、
新潮が行ったのは、迎合大衆を扇動したテロ法違反の重罪行為であり、
NHKは、ここで被害女性にインタビューするという”暴挙”である。
先に述べたように、「この社会問題の解決を国民に促すため」なら「正当行為」であるが、
裁判の判断に影響を与えようとするものであるならば司法の独立への侵犯であり、
憲法違反の(繰り返すが)暴挙である。
被害女性はたまりかねて告訴に踏み切ったわけだが、以前には思いとどまった経緯がある。
それは、他の家族が”犯罪者の子供”になってしまうなどの悪影響を考えてのことだとされている。
また、自分自身の将来への展望も描き切れているわけではないであろう。
日本国民が、マトモな大人であるならば、まずここの手当てを万全にしようとするはずであろう?
ここなしで、有罪になっても、無罪になっても、展望がないのでは「被害者を救った」ことになどならない。
まったく無責任に判決を問題視し、被害者の味方を気取っているだけの偽善ではないのか?
無罪判決のもと、穏便に、何らかの実効ある措置を取れないだろうかと逡巡しながらの無罪判決だったとすれば、報道はとんでもない暴挙を冒していることになるであろう。
いまは、処罰感情が強いだろうが、のちのち「他の方法はなかったか」などと被害女性や家族が考えることはないのだろうか?
裁判官がベテランだった場合は、そういったことまで頭をよぎった可能性がある。
しかし、そもそも教師にしろ、裁判官にしろ、公務員に言論の自由はない。
その権利を行使すれば、だいたい仕事を辞めなければならなくなる。
だから、そんな裁判官にマイクを向けること自体がすでに暴挙なのだ。
ほんとうのことを言えば排除される…
こういう社会の在り方が改まらないかぎり、いつまでもトンチンカンなところでワーワー騒ぐだけで毎日が過ぎていくことになる。