人間は、人間であろうとし続けることによって、はじめて”尊厳”ある人間たりうる…
およそ人の多数は、そのように日々意図して生きてはいないので、
「人間と呼ばれるに値しない無価値な存在」ということにもなりましょう。
戦後民主主義がさかんなころには、こんなことをいえば”大衆蔑視”となじられました。
いまでも、”女性”に対して似たような評論をすると”女性蔑視”などと言われます。
でも、ちゃんと”事実”を観察してもらいたいですね…
”蔑視だ”と言っている人の目は節穴ではないのですか?
”人間に理性があり、良心がある”というのは、学術的に”事実”として否定されてきたことです。
人間は、意図して理性的であろう、良心的であろうとし続けないかぎりはケダモノなのです。
公園のネコだって、かわいがってやると”ほとけさま”のような顔になりますが、ちゃんと獲物は狩るし、縄張りを激しく争うのです。
ケダモノだって、満ち足りていれば”ほとけさま”のような顔くらいするんです。
日本にも小此木圭吾の『自己愛人間』の研究があります。
欧米でも”良心のない人たち”の存在が確認されてきました。サイコパスや自己愛性人格障害者たちです。
”自己愛”とは、仏教でいう”我執”とほとんど同じようなものだと言えるでしょう。
”我執”によって、ほとんどの者が解脱できず、輪廻転生を繰り返すというのです。
「良心」もそうですが、「合理的精神」も実は危うい…
行動経済学は、人間がいかに”感情の奴隷”であり、合理的に思考、行動できないかを示しました。
「ユダヤ議定書」に、”賢者よりも愚者が圧倒的に多い”とありますが、仏教においても現代心理学においても、それはほとんど”事実”として確定していると言えるでしょう。
実際、そうでなければ、ソクラテスの”無知の知”なんてことが、言われるわけないのですから。
われわれ”ひと”と呼ばれる者が、人間であり続けるのは、張り渡された一本の綱の上を歩くごときことなのです。
ちょっと油断すれば、ケダモノに戻ってしまう…
だから、支配層は「拝みさえすれば天国に連れて行ってくれる」都合のよい神様を人民に与えます。
しかし、人民はその嘘八百の”神様”を信じるのです。
インチキ神様を信じていれば、神様を信じる必要がないですから、ケダモノの自分と向き合わなくてよい。
白雪姫に嫉妬した魔女のように鏡に向かって”じぶんらしさ”とやらてんこもりの自画像を映し出して、惚れ惚れとしていればよいのです。
多くの人々にとって、「宗教」とは、そういうものです。キリスト教だろうと仏教だろうと、
”自分たちの神様”だから、自分たちを天国へ連れて行くのだと、そうおもっているわけです。
ところが、キリストもブッダも、そういう「宗教」を否定していました。
人々は、いったい何を信じているのでしょう?
わたしには、わかりません…

