先の瞑想の記事は、素敵にリブログしていただきました。⇒ 「純粋な」動機
内容もより詳しく、より本格的で、もっとしっかり勉強しようという方々にはよさそうです。
この方の記事もわかりやすい…⇒ 浄化のプロセスは惑星レベルでも同じ
特にここらとか…
>私とは・・・・だ。という思い込みから目覚めなければならない
準備が出来ていない者には苦痛かも
ここらとか…
>癒しは与えられるものではない
信頼できる人からの愛のある接触はそれを促すが
自己の内部で発生するもの
同じことでも違う人が別のことばで説明すると、すっと腹に落ちるってこと、ありますよねえ?
…
ただまあ、私自身はたまたま自分の身に起こったことが作家さんたちの表現と重なることがいくつかありまして、
「もしや似たような体験をされているのかな?そこから作品につながるインスピレーションを得られたりされているのかな?」
…などと思ったものですから…
別に修行のためにやっていたのではなく、健康法の延長で、とても”気持ちがいい”からやっていただけで…
最近になって「これはもしや”瞑想”というやつではないのか」と後から思うようになっただけで…
ですから、意図して瞑想していたわけではなく、今後も「本格的に修行」するつもりもありません。
でも、簡単な瞑想をやっているうちに知らず知らずにステップアップしていくということはあると思いますよ。
そんなときは、聞いたこともない音が聞こえ、見たこともない色が見えるようになるのかもしれません…
…ですが…
そういうことを目的で”修行”するのは、”危ない”のだそうです。
変に「解脱」や「悟り」を目的にしないことが大事で…
余計な自我から解放されていくたびに、真の自我すなわち仏の自我が目覚めてくることで自然にそこへ向かうことになるでしょう。
そうするうちに、ある日突然…”降りてくる”のです…
すべてが「ああ、そうか!これか!わかった!!」というような確信を得るようになるのです。
何ごとも、一気に山の頂を目指すというのは危険が伴うものです。
高みに登る前に、遭難したり、転落してしまう恐れがあります。
まずは、単なる”呼吸法”をやるだけでよいのでは?
食べなくても飲まなくても人はしばらく生きられますが、呼吸は止めるのは「3分がせいぜい」と秋山さん…
ゆっくり吸って、ゆっくり吐く…ただこれだけ…
鼻からゆっくり吸って、ゆっくり吐く…
「腹式呼吸」とか、いちいちむずかしいこと考えない…
この”ゆっくり”がよいのです…
多分これが、思考のリズム、魂の波長とあうのです。
太極拳が一時期流行りましたが、あれ「立禅」とも呼ばれている…
あの”ゆっくり”がよいのです。からだを動かしながら、同時に”瞑想”に入っていけるのです。
だから、散歩なんかも”ゆっくり”がよいでしょう。
まずは麓(ふもと)から登る…そうでないと危ないとジョージ秋山さんも仰っています。
やっぱり、自分の魂の波動や成長に合わせて”ゆっくり”やるべきなのでしょう。
妬みや欲望を生じさせる自我は、”本当の自我”ではないのです。
不要な自我から魂を解放してやる必要があって、ところが、「不要な自我」とはいっても、それは丁寧に扱う必要があるのです。
この水と水底のたとえはわかりやすいですね…
信長みたいに池の水をかきだして水底をみようとするのではなく、静かにすることで濁りの沈殿を待つ。
水が透明になれば水底も見えてくるのです。
『ピアノの森』でも、似たような話がありましたね…
「自分のピアノ」が弾けなくなるのはなぜだったでしょうか?
カイは、どうやって「自分の音」を取り戻したのか…
これって一種の”瞑想”ですよ…
自分が一番リラックスできる場所、状況をイメージする…
イメージするって、大事ですネ!!…







