どういう”信心”が間違っているのか | バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇日本人人間化計画

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【著作権フリー・人はだれの所有物(奴隷)でもありません。身も心も、著作物も所有物ではありません。所有し、支配してはならないものです。】幸徳秋水死刑100年の怨念、乃木希典自刃100年の無念を引き継ぐ”呪い”のブログ…

だいたい「信心」ということばを使った時点で、「行っちゃってるな~」感があります…

 

ただ、「悟る」というのは、「彼岸」に渡ってしまうことで「行っちゃってる」ちゃあそうなんですが…

 

奴隷主のように全知全能なる「神」に、忠実な僕のように言うことをよくきき、よくはたらくのが「よい信者」「よい信仰」と、”99%”のザコ民は、そう思っているハズ。

 

しかし、「神様」というのは、そういうものではないですよと、教えたのがイエス・キリストです。

 

…が、キリスト教が確立して、広まれば広まるほど「奴隷主に対する忠誠」を求めるがごとき、いわゆる「宗教」に堕落していっているように感じます。

 

実際のところ、何が正しい信仰か、なんてことは、究極的には「わからない」のです。

 

しかし、そこから真実の「信仰」や「学問」は立ち上がるのです。

 

親鸞聖人も、その「わからない」という事実にぶち当たり、「念仏しかない」になるんですね…

 

善悪は相対的なものであるし、また、生きとし生ける者は、他者のいのちを奪って生き長らえるのです。

 

どうやったって、悪を成さずにすますことはできない…

 

世の中、悪人しかいないのです。

 

それで「悪人こそ救われる!」と説いたら、実際に「悪いことをすれば救われるんだ」などと言って、さんざんに悪事をはたらいた者が当時いたそうです。

 

”99%”も、そこまでは自分たちはひどくないと思っていることでしょうが、だれかから「お前は地獄に落ちる」と言われれば、十中八九…

 

「なぜ私が地獄に落ちるんだ?私がそんなに悪いことをいつしたってんだ!ええ?」って言うでしょう?

 

「自分は何も罪を犯していない」…それこそが「傲慢の罪」なんですよね…

 

 

ふつうに信仰生活をして、だれもが「模範的なクリスチャン」と評したとしても、天国に行けるわけではない。…正確にいえば、「わからない」のです。

 

ほとんどの人は、この「わからない」ってことが、わかっていないですよね?

 

「自分が死んだら、ちゃんと天国へ行けるんだ」と信じている…

 

 

あのね…それ…それが、「傲慢」なんですよ。

 

皆、自分はキリストだのを「信心」しているから、ちゃんと天国へ行けると…考えている…

 

 

それはね…キリストを信じているのではないのです。

 

 

「自分がキリストを信じている」と、信じているのでして、

 

「ゆえに、自分は天国へ行ける」と信じているのです。

 

 

自分の思い込みと、神話を信じているのです。

 

 

このまえ申し上げましたように、ほとんどの人には「ガンの告知」などはしない方がよいわけです。

 

死刑囚にも、「あした、執行な。準備しとけよ」なんて、言わないです。

 

麻酔の宗教、気休めの宗教…方便の宗教…

 

”99%”には、「ほんとうのこと」は、言えないのです。

 

 

「ほんとうのこと」…一乗の教えは”選ばれた者”にしか与えられない。

 

凡夫が、その教えを受ければ、狂い死にするのです。(ちと”大げさ”かw)

 

 

”99%”は、この「わからない」という状況に耐えられない。

 

それでカリスマや救世主によりかかり、「みなといっしょ」にやる「修行」に精を出す…

 

ある意味、「悪あがき」しているのです。その「悪あがき」を「信仰」などと言っている。

 

 

ここでの御釈迦様の教えは、何だったかといえば、「法燈明」「自燈明」でした。

 

 

ほんとうの信仰、ほんとうの宗教は…、そして哲学も学問も…

 

この「わからない」というところから逃げずに立ち上がってこそのものなのです。

 

 

どこまでやっても「わからない」のです…

 

「予定調和説」というのがありますが、これもこの「わからない」ってことを言っているのです。

 

 

カルトや間違った信仰というのは、「わからない」という、ここに立脚しません。

 

「かれこれのことをすれば天国へ行ける、救われる。あなたはそれを信じなさい」とやる。

 

 

お祈りをしようがしまいが、牛や豚を食おうが食うまいが、「天国へ行ける」かどうかは、ほんとうのところは「わからない」…

 

だから…何をしてもよい…のだろうか?

 

確かに「自由」という意味では「何をしてもよい」…だが、「因果応報」を忘れてはいけない。

 

その選択は、「当たり」だったり、「ハズレ」だったりするんだよ…

 

 

狂信とほんとうの信仰は、どう違うのか…もう少し考えてみましょう…

 

「法華経を信じないと地獄へ落ちる」…たとえば、こんなことを信じているのはどうでしょう?

 

まあ、十中八九、間違った信仰、「狂信」に類するものだと思います。

 

ところが、そう信じている人が、こう続けたとすると?…

 

「いや、ほんとうのことは、わからないんだ。でもね、僕にはこの教えが一番ぴったりくるし、それ以外のものに、”これだ!”というものを感じないんですよ。だから、私にはこれしかないんです。これを信じて地獄へ落ちるんだったら、私はもう、それでかまいません」

 

これなら「ほんとうの信仰」と言ってよいのではないのかな…

 

 

”99%”のザコ民の場合は、「何をやっても天国へ行けるかどうか、わからない」と聞いたら、鼻で笑って以後まったく「信仰」らしいことはしないでしょう。

 

「わからない」と聞いて、そこでなお食い下がり、自分なりの答え、自分なりの判断と選択をしていくことこそが、「信仰」であり、哲学的、科学的に考えるということなのです。

 

 

「カルト」や「原理主義」「狂信」「教条主義」などと言われるものは、どれもこれもこの…

 

「わからない」というところに立つことができないでいます。

 

 

「わからない」という地点に立てない似非宗教…

 

「わからない」と聞いて、真実を求めないクズ大衆…

 

 

世の中は、この二大悪徳に支配されているかのようです。