だいたい「信心」ということばを使った時点で、「行っちゃってるな~」感があります…
ただ、「悟る」というのは、「彼岸」に渡ってしまうことで「行っちゃってる」ちゃあそうなんですが…
奴隷主のように全知全能なる「神」に、忠実な僕のように言うことをよくきき、よくはたらくのが「よい信者」「よい信仰」と、”99%”のザコ民は、そう思っているハズ。
しかし、「神様」というのは、そういうものではないですよと、教えたのがイエス・キリストです。
…が、キリスト教が確立して、広まれば広まるほど「奴隷主に対する忠誠」を求めるがごとき、いわゆる「宗教」に堕落していっているように感じます。
実際のところ、何が正しい信仰か、なんてことは、究極的には「わからない」のです。
しかし、そこから真実の「信仰」や「学問」は立ち上がるのです。
親鸞聖人も、その「わからない」という事実にぶち当たり、「念仏しかない」になるんですね…
善悪は相対的なものであるし、また、生きとし生ける者は、他者のいのちを奪って生き長らえるのです。
どうやったって、悪を成さずにすますことはできない…
世の中、悪人しかいないのです。
それで「悪人こそ救われる!」と説いたら、実際に「悪いことをすれば救われるんだ」などと言って、さんざんに悪事をはたらいた者が当時いたそうです。
”99%”も、そこまでは自分たちはひどくないと思っていることでしょうが、だれかから「お前は地獄に落ちる」と言われれば、十中八九…
「なぜ私が地獄に落ちるんだ?私がそんなに悪いことをいつしたってんだ!ええ?」って言うでしょう?
「自分は何も罪を犯していない」…それこそが「傲慢の罪」なんですよね…
ふつうに信仰生活をして、だれもが「模範的なクリスチャン」と評したとしても、天国に行けるわけではない。…正確にいえば、「わからない」のです。
ほとんどの人は、この「わからない」ってことが、わかっていないですよね?
「自分が死んだら、ちゃんと天国へ行けるんだ」と信じている…
あのね…それ…それが、「傲慢」なんですよ。
皆、自分はキリストだのを「信心」しているから、ちゃんと天国へ行けると…考えている…
それはね…キリストを信じているのではないのです。
「自分がキリストを信じている」と、信じているのでして、
「ゆえに、自分は天国へ行ける」と信じているのです。
自分の思い込みと、神話を信じているのです。
このまえ申し上げましたように、ほとんどの人には「ガンの告知」などはしない方がよいわけです。
死刑囚にも、「あした、執行な。準備しとけよ」なんて、言わないです。
麻酔の宗教、気休めの宗教…方便の宗教…
”99%”には、「ほんとうのこと」は、言えないのです。
「ほんとうのこと」…一乗の教えは”選ばれた者”にしか与えられない。
凡夫が、その教えを受ければ、狂い死にするのです。(ちと”大げさ”かw)
”99%”は、この「わからない」という状況に耐えられない。
それでカリスマや救世主によりかかり、「みなといっしょ」にやる「修行」に精を出す…
ある意味、「悪あがき」しているのです。その「悪あがき」を「信仰」などと言っている。
ここでの御釈迦様の教えは、何だったかといえば、「法燈明」「自燈明」でした。
ほんとうの信仰、ほんとうの宗教は…、そして哲学も学問も…
この「わからない」というところから逃げずに立ち上がってこそのものなのです。
どこまでやっても「わからない」のです…
「予定調和説」というのがありますが、これもこの「わからない」ってことを言っているのです。
カルトや間違った信仰というのは、「わからない」という、ここに立脚しません。
「かれこれのことをすれば天国へ行ける、救われる。あなたはそれを信じなさい」とやる。
お祈りをしようがしまいが、牛や豚を食おうが食うまいが、「天国へ行ける」かどうかは、ほんとうのところは「わからない」…
だから…何をしてもよい…のだろうか?
確かに「自由」という意味では「何をしてもよい」…だが、「因果応報」を忘れてはいけない。
その選択は、「当たり」だったり、「ハズレ」だったりするんだよ…
狂信とほんとうの信仰は、どう違うのか…もう少し考えてみましょう…
「法華経を信じないと地獄へ落ちる」…たとえば、こんなことを信じているのはどうでしょう?
まあ、十中八九、間違った信仰、「狂信」に類するものだと思います。
ところが、そう信じている人が、こう続けたとすると?…
「いや、ほんとうのことは、わからないんだ。でもね、僕にはこの教えが一番ぴったりくるし、それ以外のものに、”これだ!”というものを感じないんですよ。だから、私にはこれしかないんです。これを信じて地獄へ落ちるんだったら、私はもう、それでかまいません」
これなら「ほんとうの信仰」と言ってよいのではないのかな…
”99%”のザコ民の場合は、「何をやっても天国へ行けるかどうか、わからない」と聞いたら、鼻で笑って以後まったく「信仰」らしいことはしないでしょう。
「わからない」と聞いて、そこでなお食い下がり、自分なりの答え、自分なりの判断と選択をしていくことこそが、「信仰」であり、哲学的、科学的に考えるということなのです。
「カルト」や「原理主義」「狂信」「教条主義」などと言われるものは、どれもこれもこの…
「わからない」というところに立つことができないでいます。
「わからない」という地点に立てない似非宗教…
「わからない」と聞いて、真実を求めないクズ大衆…
世の中は、この二大悪徳に支配されているかのようです。