現行憲法が国会で議論されたとき、「これでは自衛権がないではないか」と論陣を張ったのは日本共産党であった。それに対して、ああだこうだとリクツをつけてごまかし(?)てきたのは、自民党の方である。
それが昨今、急に当時の共産党みたいなことを言いだし、憲法改正を唱えているのが安倍政権である。
あべは、世界情勢の変化から、より緊密に同盟態勢を構築していかねばならないとしているが、現行憲法の9条の規定も、「独立」とは名ばかりに、実質占領体制が継続し、敵国条項までしっかり国連規定に残ったままという事情を反映したものである。
実質占領下で、独立できていない国が軍隊を持つというのは、どういうことになるのか?
日本の自衛隊をアメリカとグローバル化した日米大資本のために、人身御供として差し出すことに他ならない。それは決して、日本の国民や財産を守ることにはならない。
日本の国民と財産を、自衛隊ともども日米大資本に捧げることになってしまう。
国防に関することは、極力エゴイズムに徹するものである。
それは侵略国家であるアメリカのようなエゴイズムではなく、危険な戦争、無益な戦争にはもちろん、やむを得ない戦争に対しても兵力の損耗を避けるという兵法の道理にかなったものという意味である。
織田と同盟を結んだ徳川の例を見ても、常に織田の戦争に駆り出され、もっとも危険な役割を担うことになったばかりでなく、旧今川勢力に通じる憂いを消すために息子と正室を犠牲にせざるをえなかった。
つまり、今回の憲法改正も、日本がアメリカのために矢面に立って矢玉を浴び、息子や正室に相当する「大切なもの」さえも犠牲にしろという話としか思えない。
それをさも、日本の国民の生命と財産を守るためであるかのように言いくるめようとする詐欺師根性が華につくばかりでなく、憲法論議や国防論議を歪めてしまうのである。
もっとも議論しようにも、実質占領状態継続の日本に主権はないも同然であるから、議論のしようもないという事情が一方ではある。
しかしながら、それでも何年かしたらアメリカがみっつに分裂して内戦を始めたなんてことだって起こらないともかぎらず、そんな事態が生じてから憲法論議、国防論議をしている”泥縄”では役に立たない。
だから、そういうことも含めていまから議論をというのならわかるが、現在の改憲論議は、まったく支離滅裂で、日本の法秩序を弄ぶに等しい愚行である。
佐伯啓思が言うように、護憲派の思考停止状態も問題なのだが、そもそも実質占領状態で何を議論するのかということのほかに、一般国民には扱いかねる問題なのだから、文句を言ってもしかたがない。
それで今回は佐伯啓志の議論で、とくに気になる点について指摘しておきたい。
ひとつは、憲法について「17条憲法」のようなものを想定している感じのする点である。
あべなどがふたことめには、「憲法は”国のかたち”を決めるもの」という言い方をしているが、近代憲法の考え方を理解できていない印象を覚える。
「17条憲法」のような前近代的な憲法に逆戻りするというのでは、日本の国益になるとも思えず、いずれ世界の嘲笑を受けるであろう。
「17条憲法」でできるのは「法治国家」ではなく、「律令国家」だ。
それは国家を会社のごとくに「これは誰の国か」と明示して、株主や取締役のようなものを定めて、規則を作り、従業員らを、それこそ”取り締まる”ような国家である。
構成員が「だれにしたがうか」を明示して、一種の”命令系統”を整備し、ひとりひとりが自主的に、この統治にしたがうように細かに法令規則を定めて守らせる…軍隊のような”組織”を作る。
そこに「平等」はない。もちろん、自由もない。
権力機構や会社だけがそうであるならば、国民は就業時間中だけ”奴隷”でいればよいが、国家を律令国家にしてしまえば、「オフ」の間も”奴隷”とならなければならない。
それが「戦時」ともなり、「国家総動員」などと言い始めたときにはどうなるのかというのは、日本国民が体験して、まだ百年と経ってはいないのだ。
それすらもう忘れてしまったのか?
近代憲法というのは、国家と国民との間に結ばれた”社会契約”であり、すなわち”約束”である。
忘れっぽい、健忘症の国民は、国家が何を約束したのかも忘れて呆けている。そして、それをよいことに特権階級その他が好き放題やっているのである。
公約さえ守らないウソツキどもが、憲法という”約束”も守るはずはないのだ。
”社会契約”というのは、「約束を守る」ということで、別にキリスト教がどうのに関係なく、古今東西に共通する法の観念である。
相手の自由意思を尊重して結ばれることが、とても重要であるので、そして、立場の差などに関係なく平等に守られねばならないがゆえに、自由、平等、博愛というのである。
相手を尊重することなしに、相手の自由意思に基づいた合意を形成することはできない。
かつて、諸葛孔明が法を重視し、期間交代で兵を国に返すと法令で定めたのちに敵が攻めてきたにも関わらず、それでも「法令で定めまでした”約束”だから」と言って守ろうとしたという、実話かどうかよくわからないエピソードがあるが、『三国志』の書かれる時代から中国にすら「約束はまもるべきだ」という観念のあったことが窺える。
そして、孔明ではないが、人民の合意を得て定められた法の支配は、強い結束と安定した秩序をもたらし、国を根底から強くするという信念、教訓が描かれている。
そして、実際、自由民権運動などをやってきた人民を筆頭に歓迎した日本国憲法が、国民に対して「約束」したがゆえに日本は「強い国」となり、いっときは「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまで言われて驚嘆されたのであった。
それが何ゆえ、「強い国」を作ろうという総理大臣が「憲法が日本を悪くした」などという言いがかりをつけるのであろうか?
支配層から国民まで、憲法の何たるかも学ばずに蔑ろにしてきたから日本が「悪くなった」のではないのか?
また、佐伯によれば「”憲法守って国滅びる”では元も子もない」などと軍隊の必要を述べているのだが、人類の歴史を見れば、必ずしもそうでもないことがわかる。
『三国志」の赤壁の戦いで、呉の国は賛否両論に分かれたが、周瑜が断乎開戦の意を表して決戦と決まった件がある。
周瑜が何を考えたかといえば、曹操の魏に下れば孫権一族は無事ではいられないか、相当に落ちぶれてしまうことが必定ということである。国中の家臣が講和を唱えるのは、自分たちに「再就職」の目があるからだと見抜いたからである。
ひとたび決戦となれば家臣たちも「再就職」など覚束ない。覚悟を決めて戦うしかないわけなのだ。
中国だろうと、日本だろうと、国が滅びても「家畜」に等しい人民は殺されない。むしろ、大事にされることすら珍しくなかった。
また、人民を味方にできなければ戦争にも勝てない。
マッカーサーがフィリピンなどを取り戻せたのも、人民が必ずしも日本に服従していなかったからである。
これが沖縄となると、制空権も制海権も取っているにも関わらず米軍の損害が増大した。
これが日本本土に近づくほど、ますます戦力も尽きている相手に損害を増やしたのだった。
中国共産党も、べトコンも、人民を味方にしてゲリラ戦で戦った。
中国共産党は大陸を支配し、ベトコンは米軍を斥けた。
「国」が、ほとんど滅びているに等しい状態で、なぜ彼らが勝ち、アメリカなどが負けたのか。
それゆえ、蒙古が中国を支配して、蒙古方式を強要したものの、だんだん中国の文化に蒙古の方が順応するようになってしまった。
つまり、「国」というのは、その地域の徴税権と徴兵権を握っている特権階級のことにすぎず、人民は選挙で新しい支配者を受け入れるがごとくに戦争で勝った新しい支配層にしたがったのである。
したがって、「国」など守ろうが守るまいが、人民にとってはどうでもよい。
そこに独占的権益を得て”甘い汁”を吸おうという薄汚い連中が”国のかたち”などと言うのである。
人民は、騙されてはならぬ。
「金融ユダヤ」と結託したとされ、国を盗んだ薩長は、「国作り」と称して人民を扇動したが、支配が固まると賊軍扱いして、真っ先に切り捨てた。
だいたい先の大戦でも、国土がボロボロになっているのに、薩長財閥は空前のぼろ儲け。
こいつらが「愛国」であるなら、財産を使い果たして自分たちもボロボロになっていたはず。
自分の儲けのために国土を焼け野原にして平気だった連中を「保守本流」などとしてもちあげ、引き続き政治家や大臣にしている日本国民は、バカ以外のなにものでもあるまい。
彼らの薄汚い根性が、戦後70年を経てもまるきし変わっていないことは、ずっとだれの目にも明らかなことであろう?
しかも、NHKが何年か前に特集したところでは、大本営はエノラゲイの動向を逐一把握しており、日本本土へ接近してくる様子も把握していながら迎撃もせず、導き入れ、防空警報を解き、そのまま去らせたことを当時の秘密文書の発掘を通して明らかにしていた。
高橋五郎氏の数々の「陰謀論」で語られていたことと、一致する話である。
これまで「保守」と呼ばれた人たちのなかでも「アメリカは人工国家だ」「パールハーバーはアメリカの陰謀」といった話がなされ、「陰謀論」として語られているもののいくつかには信憑性があるのだ。
カンの鈍い日本人のために、たとえば、どんな疑いがありうるかを具体的に述べておこう。
日米支配層は、自分たちの利益と勢力の最大化のために世界戦争を演出し、興行し、そこで大成功したのみならず、核兵器の人体実験のために共謀して日本国民を犠牲に捧げた…
このような仮説が決して単なる妄想とは言い切れない、数々の怪しい事実があるということを、国民はもっと知らねばならない。
(もっとも、この先もずっと自覚なき家畜のままで生きていたいというのなら、何も言うことはない)
したがって、「国」などより人民と憲法を守る方が大事で、軍隊など必ずしも必要ないというのは、歴史の教訓に基づいたものであって決して空想論ではない。
ユダヤ人が「国」を失っても宗教を捨てなかったことで再起した例をみてもわかるだろう。
また、先の大戦では日本軍は日本を守らなかったという実績がある。
9条改正を主張する者たちこそ、歴史の勉強が足らない。
とはいえ、現代では別の問題も生じている。
アメリカ大陸で、数々の文明が滅び、人民は言語までも失っている。
何が起こったのかというと、ジェノサイドと強制移住である。
古代中国の戦争なら、土地を取れば人民をそのままにして”上がり”を獲ればよかったが、産業革命以降は、ガラリと様相が変わった。
奪った土地は、そのまま住民に耕させるのではなく、土地の生活者に関係のないコーヒーだの、ゴムだの、綿花だのを大量一括栽培する必要から完全に追い出すようになったのだ。
アメリカなんぞナチスのことなど言えた立場ではないホロコースト国家であり、今日でも国家犯罪を継続している。
また、明治以来、アメリカのポチである日本は逆に北海道に「開拓」と称してどんどん国民を入植させた。
その結果、アイヌたちは自分たちの生活を失った。
同じようなことを、日本は朝鮮や満州に対しても行った。
今日、自由貿易の名のもとに移民政策を推進させているのも、世界支配層がホロコーストの非難を浴びることなく「合法」的に土着の人民を取り除くために行っていることである。
欧州は、その洗礼を受けて、政治が不安定化している。
経済も成長させれば、なんでもいいわけではない。
だが、このままでは、いずれ遠くない将来、地球が丸ごとだれかの所有物となり、”持たざる者”たちは「不法侵入者」として外来動物のように狩られ、追われる日が来ることであろう。
最後に”生誕百年”の丸山眞男のことばを掲げておこう。
日々自由になろうと、することによって、はじめて自由でありうる。