かつて、『朝日ジャーナル』に『諸君!』ありしころから比べると、近頃の『正論』の劣化は目を覆うばかりとなっている。
ネットが普及して、言論の質が上がるのかと思いきや、ますます”白痴化”の一途を辿っているようだ。
この宮脇氏の議論(→ 非民主主義者になっている自己矛盾を認めぬ日本のリベラルたち)
…なんぞは、アホ中二レベルではないか?
「保守」を自称している連中の多くが、単なる中二病というのでは、現代日本も末だなあと思う。
かつて、『正論』で論陣を張っていた方々は、それなりに歴史に詳しく、また「ユダヤ陰謀論」でも出てくるような「歴史の真実」についても、そこそこ触れていたのである。
現在の「アホ種」とは違って、
アメリカが「人工国家」であることや、「民主主義」が本当の意味では、どこでも実現していないということや、女権運動が「家庭に”革命”という権力闘争を持ち込んだもの」であることなどを「保守」が論じていたのである。
現在の自称保守のように「アメリカは味方」と決めつけて思考停止しているような”お花畑”とは違い、どうやってこの”ならず者国家”とつきあっていくべきかを真剣に論じ合っていた。
ネトウヨのうすらバカどもは、ふたことめには「お前はなに人だ」などと聞いてくるが、厳しくアメリカ批判をしていた当時の「保守」からみれば、アメリカのポチであるネトウヨ、あべサポどもに対してこそ
「おまえら、なに人だ?」と聞きたいはずである。
宮脇氏は、竹田なにがしのことばを引くが、なにがしですら「意味がなくなった」という「左派」「右派」の選別仕分けに結局こだわっている。
戦争というのは、まず情報の錯乱から始められる。
「放射能安全デマ」や「慰安婦はなかったデマ」は、そうした”陰謀”の流れの中から流布されている。
「陰謀論」自体も、そういう意図でデタラメが流されていたりするのだが、現在はテレビの伝えることが「事実」と信じ込んでいるチンパンレベルの国民が圧倒的多数なので、「”陰謀論”はデタラメ」などと妄信していると、実はそっちの方がよっぽど真実に近いということがままある状況である。
宮脇氏も、そうした国際的諜報戦のなかで情報をかく乱させることを任務とするスパイ勢力に利用されているクチであろう。
ウブな新入りの共産党員が、上部に乗せられて知らず知らずカルトで熱心な”党員”となっていくように…
また、「キリスト教」や、なかには「仏教」の看板で活動して、やはり世間知らずの”おネンネ”ちゃんを熱心な信徒にしていくがごとくに、「信仰」に生きておられるのであろう。
そもそも共産党に公安警察がつくのは、暴力で国の財産を奪った薩長財閥支配層が、これまた暴力で反対派の政治運動を弾圧した歴史に由来している。
それを共産党の方が暴力組織であるかのように言うのは、白を黒と言いくるめるネトウヨ話法、ヤクザ話法そのものであろう。
ヤクザどころか、警官にも婦女暴行しておいて、自分が誘われた被害者であると裁判で主張する者がいるくらいだから、こういう”虚言癖”人格というのは、日本人にはけっこう「ふつうのこと」のようである。
また、共産党のような組織には、必ずといっていいほど、どこぞのスパイが潜り込んでいる。
戦国時代でも、「一向一揆」というのがあったが、背後に侵略を狙う隣国の工作が入っている場合が少なくなかった。
日本とロシアが接近するようになると必ず共産党がスキャンダルなネタを暴露するのはなぜであろう?
どこのスパイが、事実上現在の共産党を動かしていると思うか?…
「左だ、右だ」という単純な”仕分け”で政治状況を判断していては、こういうところに決して気づけない。
宮脇氏は、ほかのネトウヨ同様、都合の悪いネタは必ずスルーして、朝日新聞のごとくに、論破され尽くされた妄言をいま初めて論じるがごとくしゃあしゃあと述べ立てるクチなので、工作員なのだろう。
工作員の使命は、議論ではなく、”宣伝”だからである。
空理空論でも、百回千回と繰り返すことに意味がある。
それと共産党が公安から狙われるのは、「地球は誰のものでもない。みんなのものだ」とする共産思想が、利権や財産を腕づくで占有している特権階級にとって「都合の悪い」ものだからだ。
「持てる者」と「持たざる者」の厳格な格差を作ることで、支配層の富と権力は生まれる。
よって、日本だけではなく、アメリカでもとくに戦後はレッドパージがひどかった。
支配層は、人身売買や麻薬売買、武器売買等で成り上がってきた連中である。共産主義者や平和主義者の主張は自分たちの悪事を追及し、富と権力を自分たちが占有していることの正当性に核心的な疑義をつきつけられることになる。
それを避けるために、支配層は共産思想と暴力を結び付け、自分たちが暴力すべてを奪ってきた歴史を捏造しようとする。
「日本の文化」だ「日本の伝統」だというのも、そういう意図で捏造されているものばかりではないか?
そうした支配層によって捏造される「日本の文化や伝統」ではない、人民による(本当の「日本の文化や伝統」をということで、プロレタリア文化運動なんてのも行われた。
それで、演劇や音楽をやる者とかが特に団塊世代あたりに多かった。
しかし、支配層は文化芸能のビジネスをも支配している。
「よいもの」が育ってくれば、カネで買い取ってしまう。スポーツでも同じ構造になっている。
「あしたのジョー」でも、丹下段平から、日本有数の大富豪である白木財閥に引き抜かれる格好になるストーリー展開になっている。
芸能やスポーツのビジネスが、何のために存在しているのかが、よくわかるのではないか?
マンガにしたって、著作権を保有することになるのは最終的には「会社」である。
「進撃の巨人」だって、アニメ化などすれば、フジ傘下のポニーキャニオンなどが「著作権者」となるのだ。
「所有権」というものを設定することによって、「カネですべて買える」世の中となり、富と権力を独占するところには、すべてのものが集まってくることになるのだ。
共産主義は、個人の所有権ではなく、集団的組織的な巨大な所有権を否定したり、そこに疑義を突きつける。支配層のビジネスにこれほど「都合の悪い」思想もないということなのだ。
だが、一般市民からすれば、どうであろう?
「持たざる者」からして「地球は誰のものでもない」という思想は「都合が悪い」ものだろうか?
しかしながら、資本主義誕生以前の時代から、ビジネスが発展していくと、ゲマインシャフトはゲゼルシャフトに”淘汰”されてしまうのである。
現代日本でも、巨大ショッピングセンターが進出してくると、家族経営的な店は競争に負けていく。チェーン店方式の店に、個人の店が負けていく。
古代ローマにおいても、ローマが発展するにしたがって自由民は没落して土地を手放すハメになり、その土地を耕作したのは奴隷たちであった。
奴隷のように人間を使役する組織、そして、奴隷でもできる労働内容で職人に負けない品質と、価格を実現するビジネスモデルを開発した事業家が経済競争を征していったのであった。
フォードの成功もシロウトたちを集めて単純作業の流れ作業化を実現したことにあったとされる。
当時は、「ファクトリー」と呼ばれて、職人の手作りよりも、工場製品の方が品質が良くってイケているというイメージが大衆に共有されていたほどらしい。
そうした現象が、世界的規模で加速的に進行しているのが、現代である。
技術革新とグローバリゼーション…それを怠れば競争に負ける…
だが、それを進めれば進めるほど「格差」は拡大し、労働力も”奴隷化”していく。
中産階級の没落は、日米に留まらない。「歴史的必然」として、現実だけが進行していっている。
「右だ、左だ」などと幼稚な議論をやっている場合じゃないだろう。
とはいえ、議論は相手を選ばないと生産的にならない。日本人どうしが「議論」しても決して「生産的」にならないのは、総じて日本人のレベルが低すぎるからだ。
そして、レベルが低ければ、いずれ競争に負ける…淘汰される…
…ま…それだけのことではある…
さて、あともうひとつ宮脇氏の救いがたい無知を指摘しておかねばなるまい。
民主主義というのは、「法の支配」なくば機能しない。
そして、「法」とは、「合意」のことである。
似非保守の「アホ種」たちに共通するのは、ここの部分の無理解無知である。
「話し合い」は、民主主義ではない。そんなものは「軍議」でも行われている。
「軍議」は「民主主義」か?
17条の憲法なんぞ持ち出して、それでできるのは”律令国家”であって、”法治国家”ではない。
宮脇氏の先の議論には「社会契約」に触れたところがひとつもない。
法の正当性は何に由来するのかがまったくわかっていないチンパンレベルの国民である。
法の正当性は、「相手との合意」である。
「みんなで話し合って決めた」ことであっても、自分が合意していないことにしたがう義務はない。
それが、民主主義だ。
つまり、強行採決などで、「はんた~い」とデモをして意思表示をするのは、「それに私は合意していない」という意思表示であり、当然の権利なのである。
それを宮脇氏は「結果に従うのが民主主義」だなどと根本的に民主主義を履き違え無知を晒している。
「結果に従う」というのは、海賊や山賊の文化である。つまり、倭寇の文化、倭人文化である。
民主主義と言うのは、そんな野蛮なものではない。だから、明治のときから日本人が欧米のマネをすると「サルマネ」とひんしゅくを買った。それを単に「差別」と解釈しているから、いまだに進歩がない。
「結果に従う」義務があるのは国家機関などの権力機構である。
よって、行政機関は選挙の結果に従わざるを得ない。が、大衆にそんな義務はない。
宮脇よ、義務もないことを力や詐術でやらせるのは「強要の罪」等の刑法に触れることだぞよ。
基本的人権を尊重する市民社会においては、「結果に従う」必要はなく、「結果を尊重」すればよろしい。
「他者の自由意思を尊重する」のが、法治国家の基本であるから、「結果に従え」ではなく、国は「はんた~い」と意思表示している人々を「尊重」しなければいけない。
それが日本国憲法の定めなのだが、これを変えて十七条の憲法みたいにして、いったい日本をどうするつもりなのだろうか?
ともあれ、「左派」と自分が勝手に”仕分け”している人々の「非民主性」なるものを指摘するにしても、もうちょっと根本的なところを理解しておくべきではないだろうか?
いまの雑誌「正論」に、いかに「読む価値」がないかを証明してくれた貴重な一筆であった。