”愛”という偽善 | バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇日本人人間化計画

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【著作権フリー・人はだれの所有物(奴隷)でもありません。身も心も、著作物も所有物ではありません。所有し、支配してはならないものです。】幸徳秋水死刑100年の怨念、乃木希典自刃100年の無念を引き継ぐ”呪い”のブログ…

最初に少し復習しよう。

 

被害者が「お互い様」と言う場合と、加害者が「お互い様」と言う場合では、

 

ことばの意味は反対である。

 

患者が医者に、生徒が教師に「おかげさまで」と言うのはふつうだが、医者が患者に、教師が生徒に

 

「おかげさまで」と言えば、「はて、どういう意味か」と首をかしげねばならない。

 

 

「自由主義」も…

 

「相手の自由を尊重する」のが、リベラリズムで…

 

「自分の自由を尊重する」のが、新自由主義や帝国主義である…

 

 

人権も、しばしば「自分たちの自由を尊重しろー」とやるからファシズムになっている。

 

護憲派がいちばん実質的な憲法改正の実行者だったかもしれない…

 

 

さて、そして「愛」も…

 

相手に愛を求めれば、呪いに変わってしまう…

 

最上の愛は、自分のいのちを差し出すことであるから、これを相手に求めることは…

 

「私のために死んでくれ」という意味となるので、「殺してやる」と言われているに等しい。

 

 

そうしたことを考えながらディズニー映画も見ていないと、相手に自己犠牲を平気で求める鬼畜になりかねない。

 

「愛する者のために自分を犠牲にすることは美しい…」

 

そうやって、「愛国心」とやらが植えつけられていった時代から、まだ百年と経ってはいないのだ。

 

 

「愛」とは、相手に求めてはいけない。(求める場合は、相手の自由意思が尊重されねばならない)

 

「愛」とは、相手に求めず、自分から一方的に行うのみで、しかも、目立たず、さりげなく…「右手の下ことを左手に知られないようにせよ」とキリストが説いたようにやるものである。

 

悪いことをするときには、その教えを守るみたいだが?…(それではダメだ)

 

 

さらによくないのは、「愛すること」は、簡単だと思っている人が多いことだ…

 

「愛」を感情だと思っている…「好きになること」だと思っている…「憐れみをかける」ことだと思っている…

 

 

さだまさしの歌だったか?…関白宣言?…「簡単なこと、愛すればいい」みたいなセリフがあった…

 

家族や祖国が「存在」し「機能」していたときは、実感もあっただろうから、家族愛や同胞愛を”踏み台”代わりにして、「愛」の実践の練習をしてもよかったのだろう…

 

しかし、機械文明が発展し、家族も学校も地域も、そして「国」も、グローバリゼーション、市場化とともに溶解しつつあるなかで、郷愁や感傷から「愛」を取り戻そうというのは、多分適切ではない。

 

家族愛や同胞愛を信じたがるのは、ある種の「依存症」とも言えるだろう。

 

 

個人主義で生きる者に、集団の溶解は致命傷とはならない。

 

家族愛や同胞愛が消えたとしても、淡々と隣人愛を実践していくだけだからである。

 

 

そう…、本当の「愛」とは、淡々としているものであり、欲情や恋慕のような”気の迷い”とは異なる。

 

しかし、人は身を焦がすような熱情に正気を失っている状態を「愛」と呼んで、恋焦がれている。

 

麻薬とどこが違うのだろうね?

 

 

「愛」は、ドキドキもワクワクもしない…

 

人々は、メモリアルをもって、ドキドキ、ワクワクを思い出して「愛を取り戻そう」とするが、淡々としたなかにこそある「愛」に気づけずして、どうやって「愛を取り戻す」ことができようか…

 

 

エーリッヒフロムも言っていたことだが、「愛する」ということは、ひとつの技術だ。芸術だ。

 

簡単にできることではない。

 

「愛情があればできる」などと考えていること自体、「愛を知らないウツケ者」である証拠なのである。

 

 

「好きになること、嫌いになること」などは、自分の自由意思でコントロールできることではない。

 

自分にコントロールできないものが「本当の自分」であるなどというバカげた考えをなぜするのか?

 

空腹になれば、からだは食事を要求するが、それが「自分」と何の関係があるのか?

 

それが「本当の自分」だってのか?

 

 

欲求や衝動は、自分の、とりわけ肉体に由来する(ときに魂にも由来する)状態にすぎない。

 

それは刻々と変化して、とりとめがない…

 

そんなものが、「本当の自分」なのだろうか?

 

 

感情や、好き嫌いは、ひとつのシグナルであって、真理真実を表しているとはかぎらない。

 

 

「愛する」ことについて、感情はとくに必要ない。

 

しかし、「愛」=「感情」「好き」と考えている俗民たちは、「愛すること」について勘違いする。

 

 

「汝の敵を愛せ」とは、「敵のことを好きになれ」という教えではない。

 

「罪びとを赦せ」というのも、罪びとや仇きのことを好きになれ」という教えではない。

 

 

そもそも感情なんぞ思いどおりに出来やしないのだから、教えの守れる保証がない。

 

 

ところが、多くの人々は、宗教家に相当する人までも、自分の感情を「好き」の方向へもっていこうとする。実に愚かなことである。

 

 

ディズニー映画をみて、人は泣いたり、笑ったりするが、感情とは、そこに現実がなくても生じうる。

 

外部から簡単に操作されてしまうのである。

 

また、役者などは自分で情動をコントロールして、本当に涙を流したりする…

 

 

つまり、人は”演技”をするのである。

 

すなわち、ウソいつわりを行うのである。

 

 

感情を拠り所に「愛」を実践しようとすれば、自分を偽り、”演技”することになってしまう。

 

人々が「愛」と言われて、それらしく想起するイメージを演じようとするようになる…

 

 

俗民や宗教家の「愛」の実践、「愛の境地」なんてものは、」ことごとく演技であり、自己欺瞞と言わざるを得ない。

 

 

あるいは、そうでなければ、「愛」というより「奴隷根性」であろう…

 

主人に「かわいがられた」奴隷は、主人のために命を投げ出すことも珍しくなかったという…

 

それが、本当の愛ゆえのものだったケースもあるだろうが、とことん飼いならされた結果だったのかもしれない…

 

およそ”自己犠牲”なんてことに及ぶ場合は、往々にして平常心ではないだろうし、武士の主従関係のように、半強制的な”しばり”があったがゆえのことであろう。

 

それを「愛」と錯覚して、「美しい」と涙を流すことほど滑稽で残酷なこともあるまい。

 

 

だから、みなさん気をつけないと…

 

ディズニー映画を見て涙するだけで、地獄に落ちてしまいますよ…