最初に少し復習しよう。
被害者が「お互い様」と言う場合と、加害者が「お互い様」と言う場合では、
ことばの意味は反対である。
患者が医者に、生徒が教師に「おかげさまで」と言うのはふつうだが、医者が患者に、教師が生徒に
「おかげさまで」と言えば、「はて、どういう意味か」と首をかしげねばならない。
「自由主義」も…
「相手の自由を尊重する」のが、リベラリズムで…
「自分の自由を尊重する」のが、新自由主義や帝国主義である…
人権も、しばしば「自分たちの自由を尊重しろー」とやるからファシズムになっている。
護憲派がいちばん実質的な憲法改正の実行者だったかもしれない…
さて、そして「愛」も…
相手に愛を求めれば、呪いに変わってしまう…
最上の愛は、自分のいのちを差し出すことであるから、これを相手に求めることは…
「私のために死んでくれ」という意味となるので、「殺してやる」と言われているに等しい。
そうしたことを考えながらディズニー映画も見ていないと、相手に自己犠牲を平気で求める鬼畜になりかねない。
「愛する者のために自分を犠牲にすることは美しい…」
そうやって、「愛国心」とやらが植えつけられていった時代から、まだ百年と経ってはいないのだ。
「愛」とは、相手に求めてはいけない。(求める場合は、相手の自由意思が尊重されねばならない)
「愛」とは、相手に求めず、自分から一方的に行うのみで、しかも、目立たず、さりげなく…「右手の下ことを左手に知られないようにせよ」とキリストが説いたようにやるものである。
悪いことをするときには、その教えを守るみたいだが?…(それではダメだ)
さらによくないのは、「愛すること」は、簡単だと思っている人が多いことだ…
「愛」を感情だと思っている…「好きになること」だと思っている…「憐れみをかける」ことだと思っている…
さだまさしの歌だったか?…関白宣言?…「簡単なこと、愛すればいい」みたいなセリフがあった…
家族や祖国が「存在」し「機能」していたときは、実感もあっただろうから、家族愛や同胞愛を”踏み台”代わりにして、「愛」の実践の練習をしてもよかったのだろう…
しかし、機械文明が発展し、家族も学校も地域も、そして「国」も、グローバリゼーション、市場化とともに溶解しつつあるなかで、郷愁や感傷から「愛」を取り戻そうというのは、多分適切ではない。
家族愛や同胞愛を信じたがるのは、ある種の「依存症」とも言えるだろう。
個人主義で生きる者に、集団の溶解は致命傷とはならない。
家族愛や同胞愛が消えたとしても、淡々と隣人愛を実践していくだけだからである。
そう…、本当の「愛」とは、淡々としているものであり、欲情や恋慕のような”気の迷い”とは異なる。
しかし、人は身を焦がすような熱情に正気を失っている状態を「愛」と呼んで、恋焦がれている。
麻薬とどこが違うのだろうね?
「愛」は、ドキドキもワクワクもしない…
人々は、メモリアルをもって、ドキドキ、ワクワクを思い出して「愛を取り戻そう」とするが、淡々としたなかにこそある「愛」に気づけずして、どうやって「愛を取り戻す」ことができようか…
エーリッヒフロムも言っていたことだが、「愛する」ということは、ひとつの技術だ。芸術だ。
簡単にできることではない。
「愛情があればできる」などと考えていること自体、「愛を知らないウツケ者」である証拠なのである。
「好きになること、嫌いになること」などは、自分の自由意思でコントロールできることではない。
自分にコントロールできないものが「本当の自分」であるなどというバカげた考えをなぜするのか?
空腹になれば、からだは食事を要求するが、それが「自分」と何の関係があるのか?
それが「本当の自分」だってのか?
欲求や衝動は、自分の、とりわけ肉体に由来する(ときに魂にも由来する)状態にすぎない。
それは刻々と変化して、とりとめがない…
そんなものが、「本当の自分」なのだろうか?
感情や、好き嫌いは、ひとつのシグナルであって、真理真実を表しているとはかぎらない。
「愛する」ことについて、感情はとくに必要ない。
しかし、「愛」=「感情」「好き」と考えている俗民たちは、「愛すること」について勘違いする。
「汝の敵を愛せ」とは、「敵のことを好きになれ」という教えではない。
「罪びとを赦せ」というのも、罪びとや仇きのことを好きになれ」という教えではない。
そもそも感情なんぞ思いどおりに出来やしないのだから、教えの守れる保証がない。
ところが、多くの人々は、宗教家に相当する人までも、自分の感情を「好き」の方向へもっていこうとする。実に愚かなことである。
ディズニー映画をみて、人は泣いたり、笑ったりするが、感情とは、そこに現実がなくても生じうる。
外部から簡単に操作されてしまうのである。
また、役者などは自分で情動をコントロールして、本当に涙を流したりする…
つまり、人は”演技”をするのである。
すなわち、ウソいつわりを行うのである。
感情を拠り所に「愛」を実践しようとすれば、自分を偽り、”演技”することになってしまう。
人々が「愛」と言われて、それらしく想起するイメージを演じようとするようになる…
俗民や宗教家の「愛」の実践、「愛の境地」なんてものは、」ことごとく演技であり、自己欺瞞と言わざるを得ない。
あるいは、そうでなければ、「愛」というより「奴隷根性」であろう…
主人に「かわいがられた」奴隷は、主人のために命を投げ出すことも珍しくなかったという…
それが、本当の愛ゆえのものだったケースもあるだろうが、とことん飼いならされた結果だったのかもしれない…
およそ”自己犠牲”なんてことに及ぶ場合は、往々にして平常心ではないだろうし、武士の主従関係のように、半強制的な”しばり”があったがゆえのことであろう。
それを「愛」と錯覚して、「美しい」と涙を流すことほど滑稽で残酷なこともあるまい。
だから、みなさん気をつけないと…
ディズニー映画を見て涙するだけで、地獄に落ちてしまいますよ…