イギリスの植民地統治のさなか、ガンジーはインドを独立へ導きました…
すべては法律で雁字搦めの当時…インド人は人間扱いされていませんでした…
憲法が改正され、共謀罪が成立すれば、日本もそのような状態になるかもしれません…
北朝鮮などにはれっきとした”思想警察”がありますが…
よくみると、日本にも同じ機能のものがあります。
すぐに見当違いのいちゃもんやクレームをつけてくる人たちが、そうですね…
自分が常識だと思っていて、人の話はろくろく聞かず、そもそも理解できず…
日本の裁判と同じように最初に「有罪、無罪」を決めてしまって、それにあった都合のよい理屈をつけて、
本来は検察の側の主張の証明力を判断しなければいけないのに、被告人の主張を「信用できない」と問答無用で却下してしまって法を発動してしまう…
昔から、奴隷には問答無用で拷問し、屈服させるものですが、その拷問係の役を日本では裁判所や工作員、「空気」を作り出し、「同調圧力」を掛けてくる一般市民が担っているのです。
ヤクザや右翼も、民営の”思想警察”として機能していると言えるでしょう。
この腐りきった現代日本の状況…
ガンジーが戦った時代のインドの状況と、さほど距離があるわけでもないでしょう…
人権のない、自由のない…クソな輩らばかりの社会…
しかし、そういう状況から人権思想や非暴力不服従の戦いは生まれてきました…
それらは、すべて理に適っているからこそ、大きな効果を生みだし、世の中を変えたのです。
逆に、サヨクやウヨは、思想がどうこう以前の態度や考え方が間違っているために廃れていきます。
そして、それらの「間違い」のパターンは、先に述べた日本の裁判所と同じなのです。
最初に「白か黒か」決めてしまい、「悪」または「敵」に仕分けした側に徹底的なDVを加えるのです。
マスコミの犯罪報道もそうですね?
「99%」の多くは、このように最初に結論を決めてしまって、あとから理由を考えています。
「テレビが言っている」「みんながそうしている」…あるいは、自分の感情を拠り所にし…
ネトウヨの場合は、国籍とか、自分たちの主張とかを”踏み絵”にして(学園紛争当時のサヨクもこれ)
何の根拠も証明もなく…結論を決めて、思い込みと勘違いで押しとおってしまう…
これは”虚言癖”と呼ばれる人格障害者の言動と共通するものです。
そういうやり方で、モノを考え、判断し、人生を送っています…違いますか?…
宗教においても、まず「この神様を信じる」と決めて、理由を「世界をおつくりになったから」とか「日本の古来の神様だから」とか、「聖書やら歴史書にこうあるから」と、理由を探していくのです。
そして、本当は何もわかってない(ゆえに”信じている”わけもない
)空疎な”信仰心”を誤魔化すために、儀式に熱心に参加したり、お題目を繰り返したりして、
”信仰心”を”演じる”のです。
最近は、どうも日本人だけではないようなのですがね…
そこで、
「いかなる”正義”も掲げない」
「いかなる”裁き”も行わない」
…としてみてください。
”正義”も”裁き”も、暴力を正当化するものです。
ですから、どうしてもやむ得ない場合以外は、”正義”も”裁き”も掲げない、やらないと決めてください。
そうしますと自然に老荘的な”道”に適った生き方をやることになります。
例えば、人の本性に善も悪もない。それら合わせて人の”さが”なのだと捉えてみる。
「性善説」でも「性悪説」でもない…「全性説」に基本の軸足をおくのです。
「何が真実か」などというのは、「結局わからない」ことだからです。
とりあえずは、こういうことにしておくが、違うかもしれない…と、「決めつけない」ようにするのです。
こうすると、判断が間違っていた時も柔軟に軌道修正できますし、予め備えもできます。
自動車の運転でも「予防運転」というのは、まさにこれです。「危機管理」も同じです。
「自己批判」とか「批判的にものをみる」というのは、こういう態度のことを言います。
全く間違って世間には伝わっていますよね?
どこかおかしなところはないか、間違いはないか、見落としなどはないか…
お出かけ前に鏡で自分のみなりをチェックするのと同じです。
「安全運転」も「危機管理」も「身だしなみ」も、不断の「自己批判」「批判的にみる、考える」ことで達成されるのです。
常に自分の主張に対して、この「批判的に考える」ことを重ねていけば、少なくともすぐにだれかに「間違い」や「矛盾」を指摘されるようなことはなくなるでしょう。
少なくとも練り込んだ分だけ、真理真実に近い主張になっていることでしょう。
そうであれば、説得力もあり、現実を変える力をも備えているでしょう。
実践から仮説や計画を立て、それを実践して反省点をみつけて修正していく…
ビジネスにおけるプラン・ドゥー・シーサイクルがまさにこれですし…
科学における経験→演繹→経験→演繹→…のサイクルもそうです。
我々は、真理真実に到達することはできませんが、こうしたサイクル、ステップを踏むことで、
無限に真理真実に近づいていくことは可能なのです。
「批判」の積み重ねによって、経営においても学問においても、成果は実際に出せるのです。
「批判的に考える」というのは、具体的には「背理法」を用いることになります。
「背理法」は、相手の主張を相手の論理を用いて打ち砕く論法です。
一度相手の主張を受け止めて、詳細に研究し、矛盾や疑問をみつけて返していきます。
これを自分に対して行えば、「自問自答」「自己批判」ということになり、
それの繰り返しは先にも述べたように経営におけるプラン・ドゥー・シーサイクルや科学の経験→演繹→経験→…のステップを踏むことですから、自分の学問が日々前進していくことになります。
「背理法」は、一度相手の主張を聞かねばならない、理解せねばならない…
ですから、「対話法」の一形態です。相手が主張してくれないと技が使えません。
また、相手の主張に矛盾がなければ、やはり「不発」です。
しかし、全然それで構わないわけです。相手の主張を素直に認めるだけのことです。
相手の考えから自分がいろいろ学ぶことになり、自己成長につながります。
また、相手の主張を「自分のもの」にできてしまえば、相手の力を取り込んだことになります。
そして、矛盾がみつかったときだけ、「それはこうではないですか?」と議論するのです。
つまり、兵法としても「背理法」「批判」は、「理に適っている」のです。
普段は聞き役、学び役で、自分が自己成長するわけです。相手が正しい間は議論しません。
相手の主張に矛盾があったときだけ、質問や反論をしていくのですから、「勝てるときだけ戦う」ことになるのです。
また、十分相手の主張を学んでいますから…
「相手を知り、おのれを知れば百戦危うからず」なのです。
しかし、世間においては「相手を黙らせる」「自分だけ声高に主張する」ことがまかり通っています。
これって、「テレビの影響」なのでしょうかね?
「背理法」の使い手がいなくなり、「批判的に考える」人がいなくなった…
つまりは、ますます日本社会は真理真実から遠ざかろう遠ざかろうと動いているわけです。
また、個人レベルおいては、「負け組」への道をひた走っていることになるのです。