豚に真珠、猫に小判、日本人に日本国憲法 | バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇日本人人間化計画

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【著作権フリー・人はだれの所有物(奴隷)でもありません。身も心も、著作物も所有物ではありません。所有し、支配してはならないものです。】幸徳秋水死刑100年の怨念、乃木希典自刃100年の無念を引き継ぐ”呪い”のブログ…

日本には、アホウ化学院やアホウ学部しかないのか、人権や憲法についてマトモに理解している人が少ない。

 

「体罰」をやたら騒いでクソガキを野放しにさせたのも、日教組じゃなくって法務省だしね…

 

よく自民の連中とかが言うじゃない。憲法は国家の形を決めるものだと…

 

聖徳太子の憲法や明治憲法などはそうなんだろうね…

 

 

しかし、高らかに「基本的人権の尊重」を謳った戦後憲法は、そうした憲法とは一線を画している。

 

むしろ、定義したのは「国家」ではなくて「人間」、「人民」の方だと言ってよいだろう。

 

 

では、どのように「人間」を定義したのか…

 

 

「人民は、国家の所有物ではない」

 

国家というのは、他民族を征服し、そこの人民を”奴隷”として再編成することでできあがってきた。

 

国家の「家」は、家畜や奴隷を意味する。「家族」「一家」とは、奴隷組織のことである…

 

征服した民族が自分たちに再び反抗しないように征服した側は徹底的に彼らを貶めた。

 

そして、”所有物”や”家畜”として扱われ、売買もされたのであった。

 

この歴史は、人類の古今東西に共通している。

 

しかし、近代資本主義の時代になって、地球規模で市場経済による植民地化が進んだことで、これに対する反発も地球規模に拡大したのであった。

 

機械文明と動力革命の進歩で絶大な支配力を手にした資本家だったが、支配地域が全世界に及ぶに至って、全世界の人民を”敵”に回すハメになったのである。

 

こうして、支配に抵抗する力も拡大し、それがリベラリズムである。”奴隷解放”の意味である。

 

 

「自由主義」といえば、アメリカや日本では、リベラリズムではなく、「他者を征服して自分の自由にする」という意味になっている。自分の自由の最大化を目指すという傍若無人な思想である。

 

リベラリズムは、「他者を奴隷扱いせずに、個人として尊重し、モノとして扱わない」の意味である。

 

日本やアメリカのような奴隷国家では、自分の思いどおりにならない「ダメなやつ」には、ギリシャやローマが奴隷に対して行ったように”制裁”を加えて、傷めつけ、「思い知らせる」ことになっている。

 

奴隷主が、拷問係に命じて行ったように、”悪”を懲らしめるわけである。

 

 

たしかに、クズというのは、どこにもいるので奴隷に対するような制裁も必要であろう。

 

しかし、一般人と、奴隷並みのクズというのは、どのように区別できるのであろうか?

 

ものすごく難しい問題が、ここにあるのに、アメリカや日本の一般国民は、あまり考えず、とにかく傷めつけて、思い知らせ、屈服させればよいと考えている者が多いように感じる。

 

 

これは、つまり日米の国民は、「人間をかつての奴隷のように扱ってよい」と考えていることになる。

 

そういった”奴隷化暴力”を容認していれば、当然ながら自分たちにそれが向いてくる…

 

 

日米の国民は、自分たちが宣言した法によって自らが現在裁かれているわけであり、自業自得というものであろう。

 

アメリカや日本は、「自由陣営」で「民主国家」だとされてきた…しかし、実際は他者を奴隷として扱う鬼畜の国である。

 

ご立派な憲法を掲げているにも関わらず、国民自身が踏みにじっているのである。

 

そして、”オレ様ルール”を「よいものだ」として他者に強要する夜郎自大の帝国主義国である。

 

 

憲法は、人間を「自由な存在」と定義した。

 

奴隷ではない、だれの所有物でもない、まして、売買される商品でもない…

 

名前のある個人として尊重される…ということである…

 

 

これが”基本的人権の尊重”の意味なのだ。

 

これが翻って逆に「国の形」を定義することになる…

 

 

そもそも「国家」というのは、人民を家畜のように支配するシステムのことだからである。

 

ある意味、「国家解体」なのである…(それゆえに支配層は人権を目障りに思うのだ)

 

 

日本国憲法によって、日本は初めて、それまでの「国家」とは一線を画した「国」となった。

 

さて、それを自民党などが壊そうとしているのだが日本国民には危機感があまりない…

 

 

それもそうだろう…

 

普段からお互いに”奴隷化圧力”をかけあい、お互いを踏みつけあっている…

 

人権を特権のように振りかざして、他者を尊重しない(自ら踏みにじっている)

 

憲法には、権利の濫用を戒め、「不断の努力」をするよう書いてあるが、だれが守っているだろう?

 

 

「主権者」というのは、「権力を監視する」のが務めであり、その義務を果たすために「知る権利」がある。

 

裁判官が必要とあれば、調査をしたり、証拠や証言を求めたりするのと同じである。

 

 

ところが、日本人にとって「知る権利」とは覗き見趣味を満足させることであり、いじめ対象のプライバシーをマスコミに暴露させて、いっしょになって蔑んで楽しむことである。

 

そこに憲法の定める「人間」はどこにもいない。

 

ケダモノ人民とケダモノ権力のコラボレーションが見られるだけである。

 

 

日本では、国民自身が憲法を踏みにじり、人権を侵害し、権力の監視を怠って暴走させている。

 

 

さて、そんな鬼畜な国民ばかりだというのに、「サヨク」は「国民の声を政治に」などと言う…

 

数の上では、奴隷の生き方を自ら選択し、家畜ライフを楽しんでいる連中の方が多い。

 

 

好きにさせたらよいのではないのか?

 

人間ではない者たちが、「自分たちは人間ではない」と、晴れて名実ともに宣言したいというのだから。

 

 

前にも述べたが、人権はいかなる特権でもない…だからこそ”天与の権利”なのである。

 

この先、いくつかの法律上の後退はあるかもしれないが、人権は奪われも分割もされない。

 

 

奴隷解放の戦いは、常にたったひとりの戦いから始まったのだ。

 

救世主を頼み、何もせずに幸運だけを希う怠け者は、ずっと奴隷でいるべきなのだ。

 

 

また、自民の連中などは、「自由が悪い」などと言う…

 

だが、日本人が善良な存在であるならば、自由になればなるほど、よいことをするはずである。

 

日本人が邪悪で卑しい存在だからこそ、自由にすればするほど世が乱れたのである。

 

 

つまり、「悪い」のは、憲法ではない。「日本人」という存在、民族が「悪」なのである。

 

 

それに第一、「集団主義」の日本人には「自由意思」がない。

 

我執に囚われてはいるが、決して日本人は「自由」ではない。

 

 

要するに憲法を守るどころか、理解すらできなかったわけで、それで世の中が悪くなったとすれば、どう考えても、やはり日本人という存在が悪なのだ。

 

奇しくも、日の丸振りかざして「反日が~」と騒いでいるような連中が、日本人というのがいかにクズな民族かということを、百聞は意見に敷かずとばかりに証明している。

 

 

このような人たちが、一人前に「人間」として認められる世の中こそが狂っているのであるから、希望通り憲法を改正して、こころおきなく家畜ライフに邁進してもらったらどうだろうか?