「金融ユダヤ」と結託して近代兵器を調達して軍事力を手に入れた薩長連合軍…
これが”錦の御旗”を掲げた途端に あら不思議!! …
賊軍が官軍に早変わり…
カジノがカネを”ロンダリング”するように…
”錦の御旗”は賊軍を官軍に”ロンダリング”したのであった。
チンピラも、日の丸を掲げれば「愛国者」に早変わり!!…
ザコ下士官の命令も「天皇陛下の命令だ」というだけで”絶対正義”に早変わり!!…
うすらサヨクは「人権侵害だ!」などのことばを”錦の御旗”にするファシズムを行っている。
「世間の常識」や「民意」等々、日本にはファシズムを正当化する”ご印籠”に事欠かない。
このように、あらゆる”正義”はファシズムを生み出す。
だが、これらはすべて、人権の法理、社会契約の法理に違反する。
つまり、民主社会、法の支配を実現するには、いかなる”正義”も唱えてはならないのだ。
社会契約において拘束力をもつものは”合意”である。
”約束したこと”だから、守ってもらうのであって、「正しいから」でも「偉いから」でもない。
全体主義民族である日本人は「正しさ」や「偉さ」を主張しようと必死になるが…
そんなことは法治国家では関係ない。
権威や正義に関係なく、お互いが合意したことにしたがうのである。
相手が日本人だろうと外国人だろうと関係ない…
相手が社長だろうと女王だろうと関係ない…
だれしも契約していないことにしたがう義務はない…
また契約したことについては、相手が子どもだろうと犬だろうと差別なく守らねばならない。
これが、自由、平等、博愛の意味なのである。
貧富の差、格差があっても全然OK。
ただし、そのような社会の放置に万民が”合意”することはないであろう…
そこには普遍的な真理、真実があるのである。
真理と正義は似ているが決定的に違う。
「1+1=2」というのは”真実”ではあるが、”正義”ではない。
いかなる”正義”も唱えない国は、ただ”真理”、”真実”にのみしたがうことになる。
律令国家であり、全体主義国家である”正義”を掲げる国と…
何も掲げず、ただ”真実”のみ、約束したことにのみしたがう民主主義の法治国家の違い…
それがわかるであろうか?
民主主義国家は、背理法と応報法によってのみ実現可能である。
背理法と応報法の習得によって初めてファシズムではない人権の行使が可能となる。
これまでのブログで述べてきたように…
背理法とは、相手の論理で相手の主張を批判することであり…
応報法は、相手の法で相手を裁くことである…
相手次第で自由自在に変化して”後の先”を取る必殺のカウンター。攻撃力抜群。
相手が主張すればするほど、相手が裁けば裁くほど、こちらには攻撃材料が揃っていく。
したがって、攻撃しているハズの相手が勝手に自爆、自滅してしまうのが通常である。
逆に何もしない相手、何も主張しない相手には、手出しができない…
背理法も応報法も、基本的に自分を主張しない。
相手の話を聞いているだけである。
相手の話を理解しようと心掛けるだけである。
相手によりそってじっと話を聞いているだけでも、背理法を使っているのと同じ効果がある。
優れた記者や議員は、厳しい質問を投げるだけで、相手を窮地に追い込む。
優れた教師は発問を重ねることで、生徒の口から正答がでるように導く。
これらは背理法の変形バージョンで、”ソクラテスの弁証法”と呼ばれている。
「対話法」「産婆術」とも呼ばれている。
この”ソクラテスの弁証法”のみが、人権行使の具体的な技術なのである。
これのできない人は人権を行使できない。
やると必ず”人権ファシズム”をやってしまうのだ。
何度も行ってきたが、人権は特権の一種ではない。
個人の立法権のことである。
だが、個人は独断で立法することはできない。必ず相手の同意が必要となる。
つまり、個人と個人が結んだ契約が”法”となる。
そういうことで、個人の立法権である人権の行使は、まず相手の主張に耳を傾けることから始まる。
なるべく相手の主張を尊重するのである。
「他者に対する尊重」というのは日本人のようにご機嫌を取ったりお世辞を言ったりすることではない。
契約によって相手を拘束するためには、相手が約束できることを確かめる必要がある…
…ということにほかならないのだ。
相手の主張に応じて、こちらの要望を、これも相手が同意しやすいように出していく…
そうすることによって不履行の恐れの少ない契約が結ばれるのである。
応報法の場合に、これを応用してみよう…
「人を殺した者は死刑である」と宣言した者がいるとしよう。
これをこちらも了承すれば、その法が自分と相手を拘束する約束となる。
その相手が冤罪で死刑になりそうになったとしよう。「助けてくれ」という。
しかし、こちらは場合によっては次のように言うことになるかもしれない。
「あなたは、テレビを観ただけで、”だれそれは人を殺した”と決めつけていましたね?あなたの場合も、テレビが報じているのです。
あなた自身が”テレビが「人を殺した」と言えば、言われた人は人を殺したのだ”という法を宣言してきたのです。
自分の法にしたがいましょうね」
現在の日本国民も、「テレビが安全といえば安全」という法を宣言し、命がけで放射能や化学物質の危険を告発してきた人たちを無視してきた。
今日の惨状は、まさに応報法に則った”天の裁き”というほかない。
このように背理法や応報法は、相手の主張や誤った正義が直接相手自身を滅ぼす効力を持つ。
間違った主張や法を宣言する者がいれば、ソクラテスの弁証法によって、すなわち人権の行使によって自滅に導き、この世から殲滅することができるのだ。
「相手を尊重する」ことによって相手が自滅して滅びてしまう…ここがキモである。
「相手を尊重する」ことによって相手を法の縛りにかけることができる…
これは一種の魔法である…
魔法も呪文と言うことばによって表現され、契約によって効力が発動するが…
何もしない者には、呼応しない者には、「さわらぬ神にたたりなし」で発動しないのだ。
魔法自体が”対話”によって、その呪力を発動するように、背理法や応報法などのソクラテスの弁証法も魔法のような効力を発動する。
絶対王政の進展とともに膨らんだ”リバイアサン”と呼ばれた暴虐な国家権力を、市民が自由を感じるまでに封印したのが社会契約なのである。
日本人は、”社会契約”というものがまったく頭にないまま、憲法や法律や人権の話をするからトンチンカンな議論ばかりしている。
江戸時代までの天下人がその権威のもとにもとに定める”ご法度”の類と民主主義法治国家の法律は根本的に異質のものである。
しかし、野蛮民族の国家を欧米は対等の文明国とはみなさない。「話の通じない相手」「ならず者」なのだから「力づくでねじ伏せるしかない」ということになる。
対等の交易条約を欧米諸国と結ぶために日本は生まれて初めて憲法を作った。
それは聖徳太子の憲法とは全く違うものである。
すくなくとも西欧人には、そう信じさせる必要があったものなのだ。
ふと気がついてみれば、歴史が示しているが、過剰生産と人口の問題を”解決”するため、現代社会は”戦争”を必要としている。
そして、戦争をやらされている国というのは、どういうところかと見渡すと、社会契約の思想が十分根づいていない(欧米からみて)異質な国々ばかりである。
日本がこの先憲法を改正して、社会契約国家ではない国を作ってしまった場合、とてもマズイことになるだろう。
日本人は、そんなに全体主義が好きなのか?
民主主義は嫌いなのか?
社会契約国家では、立法権は個人にある。
そして、個人と個人が結んだ契約が”法”となる。
そこに天皇陛下のハンコも、司法長官のサインも必要ない。
自由な意思を持つ者なら、外国人だろうと一切関係はない。
ただ、そうした社会契約という小さな立法が束となり、正式に国家に調印させたものは…
国家との約束になる。
それが、憲法であり、国の法律である。
日本人は、憲法や法律に無知でいて平気でいられる恥知らずの民族であるが…
自分が「約束」を覚えていないで、どうして国家に「約束したよね?守ってよ」と言えるだろうか?
覚えるどころか、理解すらしていないようでは権力の暴走は止められない。
権力の犬となり、エサをくれる者なら見境なく媚び諂ってついていく日本人の卑しい習性は、すでに外国勢の多くが気に病み、心配しているところでもあるが、日本民族を根絶させていくであろう。