多くの人々にとって「自由である」というのは、「欲しい物が手に入る」ということである。
だが、それによって人々は現実には自由を失っている…
人々は、自由を履き違え、自由になりたいと願いつつ、常に反対方向へ反対方向へと「努力」する。
欲しがれば欲しがるほど、怖がれば怖がるほど、あなたは権力にエンパワーしてしまう。
強大な権力ができれば、それはあなたを支配し、拘束するだろう。
「イスラム国」を名乗る欧米製テロ組織は、残虐性をアピールするのも…
人々を怖がらせるほど、自分たちの権力が強まるからである。
そして、憎悪を煽って冷静さを失わせて、人々を操りやすくする…
相手を怒らせて、こちらの罠にかからせるのは、戦の常道。
怖がり、怒っているようでは、必ず戦争には負けるわけだから、「一致団結して戦おう」なんて愚の骨頂である。シロウトがあまりでしゃばるものではない。
「欲しがらない、怖がらない」…確実に権力を無力化して、自由と主導権を我が手に握る心得…
「無欲恬淡」…ゆえに、この老荘思想の極意が中国兵法の基盤になっている。
この兵法の奥義でもある思想を「世捨て」「隠遁」だのと言ってるのは、バカだからである。
真理というのは、シンプルであると同時に、善悪を問わない。善悪どちらにも応用できる。
つまり、あなたが人を操ろうと思ったら、権力を得ようと思ったら、相手に欲しがらせ、怖がらせ、自分以外の、できればライバルに対して憎悪の念をもつように仕向ければよいということである。
テロリストもヤクザも、相手や部下を怖がらせて”支配”する。
気前よくカネを使って、自分の持ち物などを自慢したり、ときに贈り物をして欲しがらせる…
喰わせ、飲ませ、抱かせ、握らせる…
人を”支配”する方法もこのように、至って基本はシンプルなのである。
ヤクザの世界で出世するにしても、商売で成功するにしても、この原理は不可欠であろう。
その際に、自分が欲しがったり、怖がったりしていたのでは、自分が支配されてしまうわけで…
「欲しがらず、怖がらず、憎まない」というのは、上に立つ者の必須の資質だともいえよう。
ネットの中に溢れる数々の成功セオリーについて共感しながら、前回の記事に共感できなかったとすれば、それまでに読んだ成功セオリーすら理解できていない恐れがある。
それゆえに、「サヨク」も人を操ろうとする。「要求実現」「○○平等」などとエサを掲げる…
あるいは、人が恐怖するような情報を蒔いて、「大変!原発推進されてしまう!○○に投票を!」という誘導をしたがる…
これはけっきょく、自分たちが権力を志向しているのである。
権力に対抗しようとして、自分たちの権力をつくろうとする…
そして、世の中は欲望と恐怖と憎悪にまみれ、腐敗していく…
”世直し”とは、人を操ることであろうか?
欲望や恐怖、憎悪を煽ることで、世の中がよくなるのであろうか?
自分たちの陣営の者が政権に入って多数を占めれば世の中がよくなると…?
まあ、そういうことが必要なときもあるが、その考えは、原理原則を根本から踏み間違えているのである。
貴族レベルになると、富や権力があるために人々を自由に”支配”できるようになる…
ところが、それだと欲や恐怖、憎悪で動く”下等な人間”ばかりが周囲にはべるようになる。
彼らの能力は高いかもしれないが、品性は低く、人間としては信用に値しない…
こころに”まこと”をもつ者は、権力者のそばには近づかないし、近づけない。
周囲が近づけさせないし、「反抗心がある」とかなんとか吹き込んで排除させてしまう。
毎日、下等生物どもと暮らしているから、こころに”まこと”をもつ者を理解できなくなってしまう。
そして、これが貴族を破滅に導くのだ…いつでも君主を裏切って、取って代わろうという連中ばかりを選りすぐって集めてしまっているのだから当然であろう。
惣領冬実『チェーザレ』のこの場面では、貴族と庶民の感覚、考え方の典型的な相違が描かれていると言えるだろう。
刺客を炙りだすためにアンジェロを利用し、その結果ケガをさせてしまったチェーザレは、さすがに気が咎めて謝罪し、埋め合わせをしたいという気持ちを示すのですが、あくまで君主と家来、手柄と褒美の形式でしか表明できない。
「褒美がスペイン語に乗馬?」と首をかしげるチェーザレ…
人間は、犬じゃないんだってばwww…
そこは、チェーザレの側近、ミゲルはユダヤ人ということもあって、アンジェロを理解する。
ミゲルには、アンジェロの気持ちがわかる。だが、貴族であり、君主であるチェーザレが、この気持ちを理解する日はくるのだろうか…
自分の主君、ジョバンニ・メディチを裏切ったドラギニャッツァオのことばが思い起こされる…
貴族と庶民の間には絶対的な”壁”がある…今日「資本家」と名を変えたところで本質に変わりはない…
貴族は、庶民が自分に従い、尽くすことを「当然」と思っている…「犬」同然にしか思ってはいない…
庶民は、栄華や恩寵とは無関係だ…
しかし、一方貴族も孤独である。権力闘争のただなかに身を置き、まことの友人はいないのだから…
富と権力…それは、きらびやかで人々をうっとりさせる魔力を持つが、必ずしも人を幸福にはしない。
そんなものを、なぜ人はいのちかけて求めるのだろう?
富と権力から無縁な…豊かで有意義な人生を…とは、あなたは思わないだろうか…