キリストは、万民を救う法を説きながらも、すべての人々から見捨てられて絶望のなか、ただひとり十字架にかけられた…
ニセキリスト教は、ご都合主義でイエスが人類を赦し、救ってくれるように教えているがウソである。
心から悔い改めるのならばともかく、ただ「信心」しているだけの者を救いはしない。
「99%」と「1%」と思っていたら…その「99%」自体が大半「1%」と同類の鬼畜…
それが、この世の現実であり、イエスが体験した絶望である。
もしも、イエスとともに行こうというのなら、この同じ絶望の極致に自分も立たねばならない…
まあ…むずかしいことだ…
その最後の日、一番弟子のペテロにすら「斥けサタン!おまえは人間の考えをしている!」と叱った!
いわゆる「人間の考え」は捨てなければ、イエスの後に続くことはできないのだ…
万物は、人間の考えなどとは無関係に、淡々と生成しては消滅を繰り返している。
老荘思想の「天地不仁」…これがイエスの説いた”愛”であって、人々は愛欲と勘違いしている。
感情の”愛”は、移ろいやすいもので実体はない…
“我”から発生する”煩悩”のひとつでしかない…
ところが、盲目の大衆は、感情を「自分」「自分の本当の気持ち」などと考える…
だから、根本から間違えてしまう。
多くのチンパンどもにとって、「自分」とは”煩悩”であり、”我”なのだ…
こういうバカどもに、いくら「汝自信を知れ」と言ってみたところで悟ることはないだろう…
本当の自分は”眺める者”であり、それは天から、あるいは背後から常に自分を眺めている…
感情というよりは、思考であり、あるいは意志である…
だが、自分の内から湧いたというより、天から与えられたと感じるがゆえに、思考も意志も超越し、それらを束ねる機能をもつものであろう。
真の自己とは、これを言う…
自分の思考、感情、意志をまとめて管理しているかのような”機能”…
本当の自分ではない、畜生、餓鬼、修羅の「自分」を「自分」だと思っている「666」ども…
彼らには”知恵”がない…だから、悟ること自体が不可能…
本当のことというのは、しばしば”救いのない”ものである。
キリストだけではない。ブッダにしたって法華経を説くときは多くの弟子が去って行った…
真理に辿りつける者は、ほんのひとにぎり…
べつに”いじわる”でもなんでもない。本人が正しい道を選ばないのだから仕方がないのだ。
多くの者が救われない…
「神様」と呼びながら、悪魔を拝んでいる…
人々がことごとくサタンを拝んでいるのだから、この世が「神も仏もない」世になるのも当然なのだ。
救うのは、感情の”愛”ではないのだ…所有の”愛”、粘着する”愛”ではないのだ…
そうした「人間の考え」を捨てる教えであるから、”博愛”であり、「汝の敵を愛せ」なのだ。
”愛”とは、実践する”愛”…見返りを求めず、たださりげなくよいものを与えること…
無所有…支配しない、邪魔しない…
やってみりゃわかることだが、むずかしいことだ…
だから、”愛”だのなんだのと、「実践する人」は口に出さない…
「私のもの」という考え(我執)を捨てよ…我執を「愛」などと呼ぶな!
まあ、これだけ言っても聞かない人は聞かない…聞いても実践しない…そして、滅びる…
自分の人生、好きにすればよい…生きようが死のうが関知しない…
これからの裁きをくぐり抜け、生き残った者たちのために…ここにメモっておくのである…
”無知の知”と”原罪”がわかるだけでも”希望”がある…
人は情報を得ると自分が知ったように思い、「知った」ことをすべて人に話したがる…
だが、本当に確実な知識というのはごくわずかであって、まずはそうした”確実なこと”を押さえなければならない。
”無知の知”を知る者は、情報に振り回されない。知ったようなつもりにならない。
”原罪”とは、「感謝の念」と対を成すものだが、”原罪”を知る者は人を裁かない。
”原罪”と聞いて逆上する輩は、常にだれかをああだこうだと偉そうに裁いている…
まあ、説教好きや悪口好きは、これらに対する無知の結果であるとわかるだろう。
そいつらは必ず地獄に落ちるバチアタリどもなので、念仏でも唱えて”成仏”させよう…
(日本人の”成仏”は、一種の魔術で、死者が祟らぬように無害化することだ)