世俗の宗教は商売である…と言ったはずだが、わからないやつにはわからないようだ。
キリスト教にしろ、仏教にしろ、世俗の宗教はデタラメを教えている。
だから、そんなものを疑いもせずに信じていれば、地獄に落ちる。
いますでに落ちているだろう?
世俗宗教のデタラメをも見抜けぬようでは、人の本性を見抜くこともできまい。
だからまず、すべてを疑わねばならぬ。疑うことが許されないのは奴隷である。
世俗のキリスト教は、信徒を奴隷や家畜にしているだけだ。だから、「疑うな」と教えるのだ。
そんなものは、キリストの教えではない。
キリストは、ローマの支配にただひとり立ち向かった男だ。
当時も宗教は、人民を家畜化して統治するための道具でしかなかった。
キリストはそれを否定した。いわば”神殺し”をした。それで罪に問われたのだ。
いくら”迷信”でもインチキでも、”イワシの頭も信心から”である。
それはそれで宗教になってしまう。
だが、その先には”救い”はない。
もっとも、気休めや麻酔のごときものを”救い”というのなら別ではあるが…
しかし、まことの”救い”を求めたキリストは、支配の道具としての奴隷宗教を否定した。
当時は「怒りの神」の恐怖と憎悪による支配だったので、キリストはこれを逆転させた。
それが”愛”の神であるが、しかし、その”愛”は究極的には”無償の愛”であり、通常の”愛”ではない。
親子や男女の”愛”のイメージだけでとらえているうちは、キリストの説いた”愛”ではないものを”愛”と誤解して信じていることになる。
その”愛”は、教育勅語なんぞで「天皇陛下は国民をわが子同然に愛しています」のように用いられるもので、奴隷主が、奴隷を愛しているのだと、奴隷に吹き込むためのおとぎ話なのである。
「お互いに愛し合いなさい」と、イエスは確かに言ったが、バチカンはそのとおりに実践していた。
こどもをひとしきり折檻した後に、キスして抱擁し、愛したのだ…
DV…奴隷化暴力の一環としての”愛”が、実際は説かれてきたのであった。
キリストは、人民を解放しようとしたのであって、支配しようとしたのではない。
ゆえに、「ご主人様は、あなたを愛しておられます」みたいなDVの”愛”を説くわけがないのだ。
エーリッヒフロムが『愛するということ』という本を書いているが、それは男女の愛ではない。
人類愛、キリスト的愛、すなわち「無償の愛」(=無所有、無支配)について述べているのだ。
そこでは「人は愛することは自然なことでだれにもできる、能力として備わっている、と思っているがそうではない」という具合に説いている。
キリストが説いたのは、人々が自然に行う「所有愛」や「支配する愛」ではない。
つまり、キリストは”愛”など説いてはいないのだ。
バカが、支配者の洗脳工作に引っかかって、いまだに信じているだけのことである。
よくバカが言う。「神様は、あなたを愛しています」と…いません!!
ことばとしては、必ずしも間違っていないが、99%が、それを聞けば、必ず誤解する。
むしろ、一般の人々には、次のように述べた方がよくわかるのではないのか…
天地不仁…
天地には人のような余計な感情がない…
万物を産みっぱなしにして顧みず、こだわりもしない。
”仁”などというちっぽけな”徳”を無視しているからこそ、自然はいきいきと躍動する。
聖人も、これと同じで”不仁”である。人民を生きるに任せておいて作為をはたらかせない。
教え導こうともしない。(以下略)『老子道徳経第五章』
かくして天は、善人の上にも悪人の上にも太陽を昇らせ、雨を降らせる…
別に神様が、愛していようがいまいが関係ない!…
奴隷こそが「自分は愛されている」と信じたがる…
奴隷こそが「ご主人様を疑ってはならない」という”希望”にしがみつく…
斥けサタン!
自ら家畜になろうとする者は、私にふさわしくない…
※いわゆる「創造主の愛」の部分を東洋ではどう教えているか、もう少し例を出そう…
聖人は、なにものにもとらわれない。
なにひとつ意図しないので、”知”を必要としない。
いっさい分別しないので”規範”も必要ない。
本性を損なわないので”道徳”も必要ない。
自分を売り物にしないので、カネや出世や世間体も関係ない。
(中略)
聖人は、人のかたちをしてはいるが、人の情を持たない。(=俗人とは価値観がちがう)
よって、人間社会に生きるが、「人の情」をもたぬから是非に囚われない。
自然と一体となって、その徳をわがものとする。
【補足】
恵氏が荘子に議論をふっかけた。
「君は、”聖人は情をもたぬ”というが、情をもたぬ者が、どうして人間なんだい」
「私が”情をもたぬ”といったのは、”情に囚われない”という意味だ。
好悪の念に囚われ、自分自身を見失うことがなく、万事自然にまかせるのだ」
恵氏はなお食い下がった。
「だが、いっさいの人為を否定しては、我が身すら保てないではないか!」
「わからん人だな!人の存在ってのは”与えられたもの”だ。(←無所有、無支配)
好悪の念に囚われるから、きみはこうして議論を吹っかけて優劣を競おうとするのではないか。
せっかく自分という存在が与えられたというのに、そんなことに精を使い果たしていては、我が身を滅ぼしているようなものではないのか!」
『荘子』(徳光符)