「(脱原発の)民意を示せ~!」「民主主義を守れ~!」
そう言って、選挙に熱中し、勝ち負けを競っている人々…
「勝つ」とか「負ける」とか…意味あるの?
これまで意味があったの?
だれを当選させるかなんて…意味あるの?
民主党を勝たせて意味があった?(隠されていた事実がバレタ意味はあった…)
民主主義の初期において、選挙は”くじ引き”だったんだよ…
3S政策(選挙もいれると4S?)でつくられたクイズ脳…
「正しいのはA,Bどっち?」「勝つのはA、Bどっち?」…「さあ!選んで!!」…
選択肢を与えられると、そこで思考が停止する選挙ピテクスたち…
全然違うところにエネルギーをつぎ込んでいないか?
その昔、漢の太祖は強敵項羽に連戦連敗。普段でも、なるべく戦いを避けて逃げ惑っていた…
それが、最後にほとんど「一度だけ」といってよい「勝ち」を拾って、項羽を下し、皇帝となった。
また毛沢東は、国民党に「共同して日本軍と戦おう」と呼びかけたものの実際の戦闘は国民党におまかせして、せっせと農民を組織していった…
そして、日本軍がいなくなったとき、中国の覇権を握ったのは、彼らだった。
個々の戦闘は、勝とうが負けようが必ずしも戦局全体には影響しない。
都知事選にせよ、これに「勝つ」にせよ、「負ける」にせよ、何が変わるのか?
大して何も変わりはしない…これまでも、何も変わりはしなかった…
「勝ち負け」だの、「示される民意」だのは結果にすぎない。
もっともっと本質的なものがある。
そもそも…「民意を示せ!」「民主主義を守れ!」というのだが…
選挙運動は民主主義か?
あれはどう見ても、「一億火の玉」などの大宣伝、翼賛運動の一種である。
選挙運動自体は、ファシズムではないか!
「だれだれをお願いします」「だれそれに投票を」「○○な日本をつくりましょう」…
鬼畜米英を倒すため、国民一丸となってがんばろー!国債を買いましょー!…
なんか似てないかね?…
「候補を応援する」のは、民主主義ではない。国民主権ではない。
「選挙」というのは、人事権の行使であって、それは実績に基づいて下す審判なのである。
国民は審判であって、応援席の観客ではないのだ!
ここを履き違えているから、選挙に燃えれば燃えるほど民主主義が壊れてしまう。
もともと戦争誘導装置、国民先導装置であるマスコミが「選挙に行きましょう」というのも…
選挙が一種のファシズムとなっているからである。
野球にしろ、サッカーにしろ、スケートにしろ…
審判が誰かを勝たせようと応援したら、どうなるのか?…
審判とは、事実に基づきジャッジすることである。
裁判と同じように判決と同時に、理由を判決文で述べねばならない。
本来なら、国民一人一人が判決文を書いたうえで、投票すべきなのである。
いったい今のような選挙運動を展開していて”判決文”が書けるであろうか?
いったいどんな事実に基づいて、候補のどんな実績が問われ、どんな法が宣言されたのか…
そこが一番大事なのである。
右翼などが、街宣でしばしば政治家をやり込めるが、多くの場合事実の暴露がキモである。
組織の拡大も、本来重要だが、簡単に乗っ取られてしまうので、
民主主義の基本中の基本…コモンセンスの形成により重点を置かねばならない。
どんな事実を共有すべきか…
どんな法を共有すべきか…
ネット工作も、ここを攻撃してきているのがわかるだろう。
彼らは「従軍慰安婦は捏造だ~」といいながら、事実や法を捏造している!!
最近、亡くなられた小野田氏だが…
捏造だった!津田信の元日本兵小野田寛郎との共同生活手記「戦った、生きた」のちに『わがルパング島の三十年戦争』http://junpay.sakura.ne.jp/index.php?option=com_content&view=category&id=49&Itemid=77
実は、津田信が共同生活を書いたモノはねつ造だったのだ…
「テレビの報道は事実」と思っているところから、すべてが狂っていくように…
「米軍が日本を守っている」と思うところから、すべてが歪んでいくように…
「選挙運動は民主主義」と思っているところから、すべてはファシズムへとなだれ込んでいくのである。
敵は、エスパーのように簡単に人々を洗脳してしまう。
自分の世界を作れない、一般の空っぽ人間は簡単に洗脳され、兵隊になる…
作った組織も、選んだ代表も簡単に乗っ取られるということを踏まえた戦いをしなければいけない。
本当に、敵は宇宙人や超能力者かもしれないというくらい、一般人は簡単に操られている。
そういうつもりでいないと、これからも不覚をとるであろう。