まるで、予言です。
1945年の終戦時、ピョンヤンからの逃避行…五木氏のその経験は、3.11の悲劇と瓜二つです…
1945年の夏、中一だった私は、ピョンヤンにいた。そこは美しい街だった。
「美しい街」などというのは、日本人の傲慢な感傷かもしれない。
なぜなら、私たちは植民地支配の一員として、そこに住んでいたのだから。
(゙ `-´)/ 当時は五木氏たちが、コリアにとっての「在日」…いやもとい…「在韓」だったのですねぇ…
父は、九州の典型的な中山間部の出身だった。師範学校を出ただけのキャリア(?)を頼りに…
職を求めて植民地にやってきた貧しい農家の子である…
昭和の時代、外地に出て行った大部分は、”はみ出し者”だったのではないか?
内地から、押し出されるようにこぼれ落ちていった”余計者”たち…
終戦の夏、旧植民地支配者が受ける苛烈な運命に、自分たちはまったく無知だった。
そもそも「日本が負ける」ということすら想像もつかなかった…
日本人の大部分が、最後まで日本が勝つと信じていた…(-""-;)…
ふつうに新聞を読めば、戦局の不利はだれの目にも明らかだった…((o(-゛-;)…
現実をまっすぐ見る力がなかった。
米軍が沖縄までやってきているのに、敗戦の予測すらついていなかった。
( ̄∩ ̄#b いまは、放射能とTPP、植民地支配の圧政だ…
当時、ラジオが絶大な信頼感をもたれていたメディアだった。それが、敗戦後連日、こう報じていた。
「治安は維持される。日本人市民は、そのまま現地にとどまるように」
(◎`ε´◎ ) まるで、3.11報道だ…放射能は安全…原発は再稼働…
私たちは、素直に受け取って、ソ連軍がやってくるのを、ただ茫然と眺めていただけだった。
実際には、敗戦の少し前から、高級軍人や官僚の家族たちは、相当な荷物を携えて脱出していた。
ソ連軍がやってきて、口に出せないような事態が日本人居留民を襲った…
そのなかで、私の母も残念な死に方をした。

