ニーチェが難解なのは、多分、当時の訳者が理解不十分だったり、一般人があまりにも無知すぎて適当な言葉がみつからなかったりしたせいだろう…
だが、イメージは千差万別でも、論理というのは共通性をもつものである。
つまり、キリストだろうとブッダだろうと、アリストテレスだろうと孔子だろうと…
それが普遍的であればあるほど、内容も共通性を帯びてくる…
ちょうど資本主義が爛熟し、機械文明が暴走し、人間が道具として扱われるだけの存在となったとき…
その疎外状況を「単独者」「異邦人」「超人」ということばで表現し、かつ打開を図った…のであろう。
こんにちでも「個」とか、なんとかの「力」とか、やはり似たようなことを人々は、やっている…
で…ニーチェの「権力への意志」というのが、いまいちピンとこなくて…これを…
生きる意欲…生命への意志…として解釈して理解していた…それで、矛盾もなかった…
だが、これに「支配欲求」ということばをあててみたときに…
なるほどナチス的思想の原理になりうることが理解できたのである。
通常は「生きる意欲」「生命への意志」で、矛盾は生じないだろう…
だが、「支配欲求」ということばをあてて理解したとき、その領域は広がるのである…
マズローの欲求五段階説にも「支配欲求」は出てこない。
1、生存欲求 2、安全欲求 3、承認欲求 4、自尊欲求 5、自己実現欲求
…いずれも、マズローの欲求は、ベクトルが内側を向いているのだ…
「支配欲求」をあえて、この五段階説にあてはめるなら、「自尊」か「自己実現」であろう…
生存欲求(生理的欲求)や安全欲求などの「低次」の欲求は、充足されれば消え失せる。
だが、「自尊」や「自己実現」などの「高次」の欲求では、「快感」が伴い、次のステージを目指していく…
ニーチェの「権力への意志」には、こういうニュアンスが含まれている感じがする…
その「感じ」は、「生きる意欲」「生命への意志」では、いまひとつ捉えにくい…表現できていない…
さて、これまでの論究で、民主主義社会とは「支配-被支配」関係のない社会であると説いてきた。
暴力によって、一方がもう一方を屈服させる、支配するのではなしに、「合意(または契約)」による支配を根本とする社会である。
暴力による秩序ではない、法による秩序、合意による秩序…これをこそ「アナーキズム」という…
そうした秩序を目指す社会なのである。
ただ、こうした関係は、暴力によって破壊される…ゆえに、暴力を抑制する国家の力は必要である…
よって、暴力を中和するのに必要なだけ、精密に国家の「暴力」を運用する「夜警国家」が目指された。
日本国憲法は、まさにそうした民主的な理想国家建設に必要なことを書いたのである。
それを「マッカーサー憲法だ」「押し付け憲法だ」と言って否定したがるのは無知と亡国の極みであって、
彼らは国賊中の国賊勢力と言ってまちがいないであろう…
そして、ネットにはこの手の国賊どもが、あちこちに巣食っている…
実数は、もっと少ないのかもしれないが、リアルで私の周りを見ても、金融と法律には無知な者ばかり。
日本人のオツムの程度は、およそこのバカウヨどもと大差ないものと、覚悟する必要がありそうだ。
本来、こうした野蛮人どもを啓蒙するのがマスコミの仕事なのだが、わざとデタラメを広めている…
ちょうど、こんな調子だ…
さあ!1+1は…5か?6か?…どっちだー!?…と。
で、国民が「5だ!」「いや、6だ!」と議論するから、こちとらずっこける…
そこに「正解」などはありはしないし、そもそも問題が「1+1」なのかどうかも怪しいのだ…
さて…今回はちとレベルの高い話になったので、一息でいくのは疲れるだろう…
ここでいったん、コーヒーブレイクにしよう…