さて、前回でソクラテスが言ったのは…
どんな事情があったにせよ…
どんな間違いをやられたにせよ…
だからといって…
わかっていながら、悪いことをやってよいわけはない。
復讐してよいわけがない。暴力に暴力で応じてよいわけではない。
ですから、ソクラテスの主張を応用すれば、「殺人に殺人で応じてはならない」となりますから…
戦争も、死刑も否定することになります。
「悪法も法」と言って死刑を容認するのは見当違いのことです。
とはいいながら、ソクラテスは死刑に服することになります。
脱獄すれば、それもまた違法なことになってしまうからです。
ソクラテスは逃げるべきだったのか、死刑に服して正解だったのか…
少なくとも「法律は、悪法でも法律だから守るべき」などとは言っていませんし、否定しています。
それでは、続きをどうぞ…
「そこや!そっから考えてみようやないか。わしらがこっから逃げたとする…
そしたら、一番危害を加えたらあかんもんに危害を加えることにならんやろうか?」
「そやけど…あぁ、ようわからんわ!」
「わしらが逃亡したとする。それは国や法律を自分の身勝手に壊すことになるんやないやろか…
ちゃんとした手続きにしたがって決まった判決っちゅうもんを、自分の都合で守っても守らんでもいいってことになるやろか?
国が間違ったことをしたのだから、それにはしたがえませんと言うんか?」
「そうや!それがわしらの言いたいことやないか!」
「いや、そんならな…そんな決まりあったっけや?お前国の法律にはしたがうゆうて誓ったんやないんか?」
(´0ノ`*)ちょいと長くなるので省略しますが、自分たちが認めた法律である以上、それを蔑ろにしてよいわけではないということを述べるのです。
(☆。☆) これはつまり、死刑が間違っていたとしても、正当な手続きにしたがって正すべきで、それを無視してはいけないということです。
( ゜∋゜) ですから、死刑容認派が「悪法も法」を持ち出すのは、そもそもおかしいのですよ。
死刑はだめだけど→「悪法も法」=正当な手段で却下させるべき…ということです。
「つまりな…、法は何でもかんでも命令に従えっちゅうてるわけやない。それが正しくないんやったら、説得して納得させるか、正しいんやったら、素直にしたがうか、選択の余地を与えているんや。
せやのに、そのどちらもせえへんのは間違おうとる。
今回の裁判でも、国外追放の刑を提案する選択することもできた。それを死刑覚悟で(ソクラテスの場合、ここが重要)裁判に挑んだ。ここで逃亡するくらいなら、死刑回避の選択をすべきやった…
ここでわしが逃亡すれば、手引きしたお前も、お前の友達も、国外追放や市民権剥奪や。
そんで、追放先でも法律を無視した前科があるよって、疑いの目で見られるわ。」
( ̄∇ ̄+) これが、ガンジーの場合はソクラテスのように法律を認めてはいませんから、植民地解放に必要なことは、暴力的方法でないかぎり、少々違法でも決行して、甘んじて懲役刑を受けました。
刑罰に服したという点では、ソクラテスと同じですね!