消費税に再稼働、これらは何番目の封印になるのでしょうか。
ヨハネの黙示録のように、封印がまたひとつ解かれるごとに、地上には災いが起こります。
そして、いよいよ罪人たちは、悪魔に引き渡される・・・・
ときは満ちたのです。
重要なことを伝えても、無反応な人や刃向う人たちがいます。
そのような人たちは積み重なる罪業によりすでに裁かれている人たちです。
そういう心頑なな人たちを救おうたってムリな話。あとは天に委ねるしかありません。
まあ「南無阿弥陀仏」というのも、もうあとは阿弥陀様にすがるしかないという”絶体絶命”のことですから。
そういう切羽詰まった思いのない人が唱えてもどうだかな~
もちろん、一般宗教はセールスですから「大丈夫!そんなことはありません!」と言うでしょうけれども。
頑なな人たちには「足のチリを払いなさい」とイエスは弟子たちに言いましたし、
ブッダも、頑なな人たちが退場したのをみて「これでよい」と言い、そこから法華経を説いたのです。
罪ある者は救われる。しかし、心頑なな者には裁きあるのみ。救いはない。
これを「寛容」だの「赦し」だのの言葉に惑わされて見誤っている人たちがいます。
たとえば、交通違反をしたとします。そのとき法令にしたがって手続きを取れば、それ以上のことはありません。しかし、それをせず、法令違反を重ねるとどうなるか。力が発動されてしまいます。
心頑なな人は、法令違反を重ねている最中の人みたいなものなのです。
本人が福音を素直に聞く、すなわち法令に従うということをしないかぎり、事態の改善はありません。
それを「寛容」だの「赦し」だの、バカげた話です。
学校や教室でもやる気のない人は、退場するものです。(それができないから義務教育は行き詰った)
態度が改まって初めて「寛容」「赦し」ということが出てくるのです。
そして「態度を改める」のは本人の心ひとつ。
これだけは他人はどうこうできません。本人次第です。
聖別が行われるということは、受験でいう合格と不合格が分かれるということであります。
天国へ行く人と、地獄へ行く人が分けられるのです。
私にはますます破局が進んでいるように見える一方、希望を感じ取っている方々もいらっしゃいます。
罪人どもが悪魔に引き渡されるということは、そうでない人には希望なのかもしれません。
しかし、希望の側にある人たちにしても、前途は相変わらず多難でしょう。
「もっと早く気づいていれば」と、つくづく思います。
早くから気づいて警告を発していた人は少なからずいたのに、無知ゆえに見殺しにしてしまいました。
どんなに失望したでしょう。
彼らの味わった絶望と失望をすべて味わい尽くすまでは、世の中が変わることはない。
ここは、自分たちが引き受けざるを得ない天の刑罰でしょう。
2年前に比べれば、「国の借金」の正体も「消費税」の正体も解明され、ネット市民は格段の進歩を遂げたと思います。ですが、学びが進むと、自分たちがいかに無知だったかということも逆に思い知らされることが多くなります。
いや、ホントに長い間、こんなことにずっと気づかなかったなんて、万死に値する罪だと思います。
多くの者たちが悪魔に引き渡されることになるのも、やむを得ません。
国民に国民を”共食い”させる今日の”国のかたち”はいつからできたのか?
稿を改めて、その話をしていきたいと思います。