(`・ω・´) 「力がなければ何もできない」というのは「ユダヤ」と日本人に共通の考え方のようです。
(-""-;) ルソーは「力は権利をつくらない」と言いましたが、「ユダヤ」や日本人はそう考えません。
(  ̄っ ̄)b 力が権利をつくる場合、それは強盗などが銃器を突きつけて「カネを出せ」とやるようなときです。こういう場合は、相手の力が無力化しないと秩序の回復はありません。しかし、力は永続しません。
川・ε・川 力のバランスが変化して力を失えば「権利」も失うのです。
(゙ `-´)/ ルソーの「力は権利をつくらない」と言ったのはそういうことです。
(-。-;) しかし、「ユダヤ」のように権力という銃器をずっと握り続けることができるような場合、あるいは日本人のように「強い者が好きにしていい」というルールになっている社会ではどうでしょう?
(ノ゚ο゚)ノ 十何年も少年たちに拉致監禁されていた少女のごとくに国民はなるのです。
ヽ((◎д◎)) 本来の法治国家は、力を限定的に使います。
警察や機動隊が出動して強盗を武装解除して速やかに無力化させる。
(-з-)b 事件が終われば抜かれた刀も鞘に戻されるのです。
つまり、法治国家では、暴力の無力化のために力が発動される。
力の支配を否定し、法の支配に戻す。
(=`(∞)´=)9m これが「秩序の回復」「秩序の維持」なのです。
( ̄^ ̄)b これぞ「無為自然」の統治。これが憲法の目指すところなのです。
しかし「ユダヤ」や日本人は、ピストルや刀を持ち続ける統治を「現実主義」として目指しています。
(  ̄っ ̄) 誰が実力者か、誰が一番強いかということを、四六時中気にしています。
『善良な性質の人間よりは、先天的不良性の人間の方が、数において勝る事実を忘れてはならない。ゆえに学理上の議論によるよりは残忍極まる暴力を振るって威嚇した方が遥かに政治上の好成績を挙げるのである』
ユダヤ第一議定書の始まりの部分です。
刑務所みたいな社会では、確かに暴力による統治しかないのかもしれませんね?
しかし、動物でも暴力では心から服従させることはできません。人間ならなおさら。
強盗のような無法者たちが乱入してくれば、法もへったくれもありません。
力を排除するには力が必要です。
とはいえ、力の前に法が無力だからと力に頼って、その先にどんな世界があるのでしょう?
「神に何ができる!」ユダヤなど迫害され、差別され、虐待、虐殺された者たちの呪いと怒り!
ですが、やはりそれだけでは救われることはない。
(-з-)p 議定書の続きを読んでみましょう。
『人間は皆権力を求めて懸命に努力する。誰でも出来さえすれば独裁者たらんとする。
したがって、自己の利益のために一般の幸福を犠牲にすることを敢えて人はする。
人間と呼ばれ猛獣を抑制したものは何か。今日まで人間を指導してきたものは何か。
社会構成の当初、人間は粗野にして盲目的なる暴力に服したが、のちには法律に服するようになった。
この法律もまた仮面をかぶった暴力に外ならない。
これによって結論は、自然の法則により権利は力にあると言わねばならぬ。』