少し長いですがお読みください

 

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。

そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、

羊を右に、山羊を左に置く。

 

そこで、王は右側にいる人たちに言う。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

 

すると、正しい人たちが王に答える。

『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、

のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。

いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。

いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 

 

そこで、王は答える。

『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 

それから、王は左側にいる人たちにも言う。

『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、

旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 

 

すると、彼らも答える。

『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、

牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 

 

そこで、王は答える。

『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 

 

こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

マタイの福音書25章

 

ここでわかりやすく言うと

 

右側のクリスチャン 目で見える施しをしなかったが 目に見えないところで施しをしていた

左側のクリスチャン 目で見える施しをしていたが 目に見えないところで施しをしなかった

ということ

 

そこで『小さき者との誰なのか?』と考える また小さき者の定義は?

いろいろ調べわかったことは聖書で書かれている

 

『しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。』

詩編51章19節

 

『主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる。』

詩編34章19節

 

『打ち砕かれた心の人々を癒し その傷を包んでくださる。』

詩編147節3節

 

 

多分『打ち砕かれた魂が小さき者だと考える』

 

だから

ボランティア活動をした=御心にかなったじゃない

多くの人にイエス様を伝えた=自分が救われるじゃない

隣人愛を施した=小さき者に施したじゃないからね

 

目に見える困っている人ではなく 心打ち砕かれた者に対して

優しい言葉をかけたか?手を差し伸べたのか?が求められいるの


いじめや虐待にあってる者 

苦しみ 辛さを経験している者

試練の中にある者 

打ちのめされている者

打ち砕かれた者 

 

さりげなくでも助けたのか?気に掛けたのか?寄り添ったのか?祈ったのか?

 

こういう人たちは優しいから表(顔)に出さないようにしている

その微妙な空気(変化)を読み取りなさいということだ

 

何故 試練が与えらえると思うの?

『相手の空気を読む力を養うために試練が与えられている』ってことなの

痛みを知らない人が痛んでいる人の気持ちを理解できないでしょ

 

だから痛みや病 苦しみや苦悩 悩みを与えるの

痛みを知ってからこそ相手の同じ痛みが分かるでしょ

打ち砕かれた魂に気が付いてほしい 手を差し伸べてほしい

 

『彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 

彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。』

イザヤ書53章3節

イエス様は病を背負い 痛みを担った 病んでいる人に寄り添うためにね

 

目に見える奉仕や伝道もボランティア活動も大切だよ 

しかし そこばかりに目を向けると大切なことを見落とすからね

 

世の終わり

クリスチャンも右と左に分かれるからね 

完全に完璧なまでに 羊と山羊に分かれるんだからね

その日は近いからね

 

俺は気が付いてほしいんだよ 

『本当に大切な隣人愛(小さき者)の心の声を聞く』という真意をね

『一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、

エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。

ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。

多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。

イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。

 

「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た

 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。

そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。』

マルコの福音書10章46~52節

 

私はこのシーンをイメージした時

もう一人の病人がいたのではないだろうかと考えている

ようは『群衆の抑止にあきらめた者がいた』のではないか?

逆にバルティマイは群衆の抑止に諦めずにイエスに訴えかけた 押さえつけようとも叫び続けた

イエスは立ち止まった 呼び寄せた

諦めず大胆に求めた行動に「あなたの信仰があなたを救ったのだ」

 

しかし もう一人の病人はあきらて立ち去った

イエスはその存在も気が付いていたと思う

内心(なぜ あきらめた?)と思いながら

我々もあきらめかけて 立ち去っていないだろうか?

群衆の抑止に負けて

 

『わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、

確信をもって、大胆に神に近づくことができます。』

ヘブライへの手紙3章12節」

 

『だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、

大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。』

ヘブライへの手紙4章16節

 

パウロも言っている 大胆に近づいて良いのだ

謙遜は重要だが 謙遜な信仰を求めてはいない 大胆な信仰が求められている

 

『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。

そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。』

マタイの福音書7章7節

 

 

なぁ~んて 人に教えつつ 自分自身の再確認も踏まえ記事を書いた(-_-;)