南天の木 | 沖野修也オフィシャルブログ Powered by Ameba

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Kyoto Jazz Massive 沖野修也 Official Blog

京都で
長屋風の町家に住んでいると
近隣関係には
とても気を使う。

隣人は
祖父母の代から
お付き合いのある方なのだが
今も卓球教室に通われる
元気なお婆さんである。

今住んでいる家は
僕が
引っ越して来るまで
訳あって25年も空き家だった。

だから、
そのお婆さんが
僕の家の玄関前を
25年間掃除してくれていたことになる。

厳密には
母や叔母が月に一度は
空気の入れ替えや
家の様子を見に行っていたから
掃いたりしていたんだろうけど、
家の前にある
椿は
花と葉が落ちるシーズンには
結構大変なことになるので
隣りのお婆さんは
掃除をずっと続けていたのだ。

引っ越して
挨拶に行った時こそ
何も言われなかったけれど、
初めての梅雨の季節に
垂れ下がって行く手を阻んででしまう
南天の木を
切って欲しいと頼まれた。

細い路地を通って彼女が家に辿り着くには
椿と南天の木の前を
通り過ぎなければならない。

25年間
彼女は
椿の枯れ落ちた花びらと葉を
掃き続け
雨の日は
南天の木をかいくぐっていたのかと思うと
申し訳ない気持ちで一杯になった。

3メートル近く伸びた
南天の木は
祖母のお気に入りで、
野鳥が実を食べに来るということもあって
大切に育てていた。

しかし、
長年
文句も言わずに
路地の掃き掃除を続けて下さった
隣人の
ささいな願いを受け入れない訳にはいかない。

僕は
雨の日に垂れ下がる部分の枝を
バッサリと切断した。
10本以上あった南天の木を
それでも半分以上は残したから
印象はさほど変わっていない。
お婆さんにも感謝され、
揉め事の芽を摘んだ事だし
本来はこれで一件落着の筈だったが、
祖母のお気に入りを部分的にであれ
切り落としたことに少し心が痛んだ・・・。

それから
4年の月日が流れた。
南天は
新しい枝を増やし
再び
玄関前の存在感を取り戻していた。

しかし、
生い茂る枝を見て
僕は
隣人に懇願される前に
自ら
枝を再度切るべきであることに気付いていた。

梅雨でもないのに
雨の日は
枝が大きく傾いている。

相手を不快な気分にさせてから
対処するのと
その前に手を打つのでは
随分印象が違う筈だ。

ある朝の事。
僕は
思い立って
南天の枝を切り始めた。

一日違うだけで
彼女の感情は明暗を分けるかもしれない。

僕はこれで自分の配慮が
評価されると思い込んだ。

しかし、
それは誤算であった。

彼女は
もっと切って欲しいと言って来た。

日当りも良くなるし、
またどうせ生えて来るからと。

僕は、
あの時の気持ちを二度と味わいたくなかったが、
祖母はもうこの世にいない。

やはり隣人を大切にすべきだと
自分に言い聞かせた。

25年
僕の家族の不十分な対応に耐え、
その
4年後に
たった2度目の切断を
提案する権利は、
彼女に
ある。

僕は
近隣の方にも手伝って頂き
南天の茂みを
ものの見事に裁断していった。

最後に
一本だけ枝と若い実の付いた
木を残したのだけれど
お婆さんは
「思い切ってそれも切っちゃってくれない?
どうせ生えてくるんだから」

笑顔で僕の背中を押した。

その時、
僕は
枝を残す意味を考えたりしなかった。

彼女の気がそれで済むなら
伐採を完了してあげないと・・・。

きっとその残った1本が
彼女の悪い記憶を
呼び戻すかもしれないのだから。

彼女は
一面に散乱する枝葉を全部片付けてくれて
ゴみ袋にいれて処分してくれた。

僕は深々と頭を下げて
お礼を言った。

これで
もう
彼女を不快にさせる事はないだろう。

椿から目を離さなければ・・・。

僕が重大な過ちに気付いたのは
翌日の朝の事だ。

全ての枝を切り落とされ
まるで
ひからびた牛蒡が
断面を晒して
地面に突き刺さっているかのような
無様な南天の姿を見て
僕は
激しい罪悪感に苛まれた。

葉がなくては
光合成ができないではないか。

4年前
南天の木を切った時は
それぞれの幹の下の方に生えていた
枝は残した。

だから
新しい
枝が伸びて来たのだ。

しかし、
今回は
葉が残っていない。

日の光を吸収する事ができなければ
復活のパワーを獲得する事は
できなくなってしまう。

僕は、
祖母が大切にしていた
南天を台無しにしただけでなく、
植物とはいえ、
命を殺めたことを
激しく後悔した。

難を転じると読めることから
幸福を呼ぶと言い伝えられている
南天。

枯らすと不幸が訪れるという迷信もあるが、
僕は
道徳的な
犯罪行為に
手を染め、
自ら
不幸を招いていた。

それから数日が過ぎた。

添え木も考えた。
でも、忙しかったこともあり
実行しなかった。

帰宅する度に
牛蒡の群れが
朽ち果てて行く様子を目にするのが辛かった。

日当りは良くなったかもしれないが、
僕の心には暗い影が差していた。

その内
祖母が夢枕に現れてもおかしくない。
いや、
誰かに腕を切り落とされる夢に
悩まされるかもしれない。

でも、
床に活けたり、
枕の下にいれると
悪い夢を見ないと言われる
南天の葉はもうないのだ・・・。

それから数日後。

梅雨が来る気配など一向にない
五月下旬の
ある晴れた日の午後のこと。

僕は
思わぬ発見をすることになる。

衰弱した牛蒡の
水気のない固い皮膚の裂け目から
赤い小さな芽が吹き出しているではないか!

それも一つや
二つではない。

合計6個。

10本ある木の半分以上が
再生の兆しを見せ始めたのだ。

僕は
生命の力に驚かされた。

そして、
自分の弱さを思い知らされた。

過去や慣習に捕われ、
自分の主張を放棄し、
諦め、
保身に走る
自分の弱さを。

枝も葉も切り落とされた
南天の木は
それでも
命を吹き返したのだ。

折れ易い僕の心は
自然の驚異に今
励まされている。

切り取られても
再生するべきものは何か?

それを僕は
もう一度考えてみたいと思う。

切り落とした枝をしばらく
自宅に活けていたのだが
葉も落ち
実は赤くなることはなかった。

僕は
枯れた南天を眺めながら
枝を切る前より
少しだけ勇気を獲得していた事を知った。

いつになったら
南天をもう一度
活ける事ができるのだろうか?

悪い夢を避ける為に
枝を切る事は
きっとないと思うけれど。