同級生にして恩人の死 | 沖野修也オフィシャルブログ Powered by Ameba

沖野修也オフィシャルブログ Powered by Ameba

Kyoto Jazz Massive 沖野修也 Official Blog

 僕の同級生にして恩人、粟田正勝さんが先月亡くなった。
読者の皆さんは彼の事をご存知ないだろうが、
彼の存在の大きさは間接的に知っておられる筈だ。
そう、彼はTHE ROOMの初代オーナーでもあったのだから。

 高校時代、たまたま美術の授業で隣の席になった彼は、
しつこく僕を野球部に入る事を誘った。
僕が野球が得意であった事と校内で一番足が速かった事を
誰かから聞きつけたのだろう。
僕は、部活の理不尽な人間関係に付き合えない事を理由に
断固固辞したが、彼は勧誘を諦める事はなかった。
しかし、ある夜、朝まで彼の甲子園出場に対する熱い思いを、
そして、人生についての考え方を聞かされ、
危うく入部しそうになった事があった。
3年という限られた時間の中で
目標に向かって努力する美しさと
自分の使命を発見しそれに打ち込む事でしか
人生に意味は見出せないという
高校生とは思えない達観した彼の考え方には説得力があった。
それに、誰かと朝まで語り合うなんて事は
後にも先にもその一回だけの事だった。
僕の心の中には彼の期待に答えたいという気持ちもなくはなかったが、
たった1年の年齢差で実力が自分より低い人間に
奴隷のように扱われる年功序列システムに対する違和感には
やはり抗う事が出来ず(後に僕はその考えを改める事になる)、
彼が声をかけた生徒で唯一僕だけが、
彼の誘いを断る事になった。
 その後、一友人として彼との付き合いは続いたし、
3年の夏の公式戦には全て応援に行ったけれど、
卒業後は普通に疎遠になり連絡を取る事もなくなっていた。

 そんな彼と僕の人生が交錯するのは、
6年後、僕が24歳の時の事であった。
当時僕は訳合って仕事を辞め、
プライベートでも人に相談できない悩みを抱え
文字通り京都で腐っていた。
その頃、建設会社を立ち上げ
東京で成功を収めていた彼が、
懐かしさから昔の仲間に連絡を取るようになっていたらしい。
同級生の中から
その後何かをしでかしそうだった奴をリスト・アップし、
あの頃のように
一緒に何かをできないだろうかと思いついたのだそうだ。
実に彼らしい発想。
幸運にも僕はリストに選抜され、京都で彼と再会する事になった。
 僕は、全てを打ち明かした訳ではなかったが、
彼は、僕の心の中なんか見透かしていたのだろう。
一通り僕の話を聞いて彼が僕に言った事は
「東京に来い」という一言であった。
その一言が僕の人生を変えた。
それは、僕の迷いを断ち切る的確なアドバイスでもあったし、
どん底にいた僕が這い上がる為のチャンスの提供でもあった。

 僕は、何も持たずに東京に向かった。
彼が社員寮として借りていたマンションに転がり込み、
新しい生活が始まった。
特に何をする訳でもなかった。
しかも、彼は「東京で見聞を広めろ、
そして、何か面白いものを見つけたら俺に報告しろ」と
小遣いを僕にくれてもいたのだ。
パトロンから支援を受ける芸術家と言えば聞こえはいいが、
それは、はっきり言ってゴロツキの生活だった。
さすがに申し訳なくて、彼の車の運転手みたいな事をやってみたり、
会社の電話番をやったり、
時には、未払いの取り立てに行ったりした事もあった。
そう言えば、
六本木のWAVEの解体工事には人工として借り出されたっけ。
自分が好きだったCD SHOPを破壊するのは辛かったけど・・・。
でも、基本、夜な夜な出歩いて都内のクラブをうろうろする
ただの遊び人でしかなかった。まだ東京でDJもしていなかったし。
 
 そんな僕が、彼に持ちかけたのが
MONDO GROSSOのマネージメントだった。
既に上京する前から彼らと共催でイベントをスタートし、
音楽的な助言を供給する立場にあったが、
本格的なデビューを目指し
所属事務所を見つける必要に迫られていた。
相談できる音楽業界の先輩がいなかった訳ではないが、
僕の後見人でもあった“粟田さん”に
いっその事会社を作ってもらう事を選択したのだ。
そこで改めてお世話になる方が筋が通っているし、
恩返しできるのではないかと考えたからだ
(ソニー移籍前に、
MONDO GROSSOは事務所も移籍する事になるが)。

 そして、時期をほぼ同じくして、
友人から空き物件の話が舞い込み、
クラブの経営に乗り出す事になる。
東京に自分の居場所がなかった僕に、
そして、これから東京に活動を移すMONDO GROSSOにとって
それはまたとない機会であった。
僕は、手書きの内装のイメージを持参し彼に直訴した。
勿論、彼は僕の心意気を買って快諾してくれた。
ちなみに、当時、渋谷で、しかも、246の南側で、
一週間ジャズやソウルという切り口でクラブが上手く行く訳がない
と数少ない知り合いから反対されていた。
迷いがなかった訳ではない。
バンドのデビューとクラブのオープンは、
意味のある事だと自分に言い聞かせてはいたが、
店が上手く行く保証はどこにもなかった。
それでも、彼の一言が僕の背中を押した。
やれと。
何も心配する事はない。 “ケツ”は俺が拭いてやると・・・。

 18年続いたクラブの現在しかご存知ない方には、
想像できないかもしれないだろうが、
僕達がスタートしたTHE ROOMは、
オープニング・パーティーこそ賑わったものの、
その後数ヶ月は惨憺たる状態だった。
初月は、売り上げが家賃分しかなく、
人件費も経費も1円も払えなかった。
初めての大晦日にはお客さんが8人しか来なかった。
事もあろうに、僕は実家に戻っていたのだ・・・。
正直、3ヶ月ももたないと思った。
僕は、彼が本業の売り上げをTHE ROOMの支払いに
回してくれていた事を本当に申し訳ないと思っていたし、
店を流行らせる事を考えるより、
むしろ、いつ店を閉めるのがいいのか、
そのタイミングを見計らっていた。
確かに、少しづつ集客は上がっていたが、
2ヶ月目の売り上げは、開店時の酒の仕入れの支払いを済ませると
家賃も払えない程少なかった。
 それでも、彼は、僕に何も言わなかった。
やると判断したのは自分だから、
その責任は自分にあるとまで言うのだ。
この時、僕は、責任を取ると言う事の凄さを知った。
人のせいにしない。自分が決めた事の責任は自分が取る。
それをできる人間は誰よりも強いのだ。

 僕は、彼を裏切る事のないように、知恵を絞り、汗をかいて
THE ROOMの経営を何とか軌道に乗せた。
MONDO GROSSOのデビューやACID JAZZブームの到来もあり、
THE ROOMは爆発的にブレイクした。
売り上げの折れ線グラフの角度が45度になる事もあった
(スタートが悪過ぎたのだが)。
もし、あの時、彼が資金を全面的に
バック・アップしてくれていなかったら、
THE ROOMは存続しなかっただろう。
そんな事が想像できるだろうか?
数々のアーティストをサポートし、
数々のヒット曲を産み出し、
数々の出会いを演出してきたTHE ROOMが、
オープンからわずか数ヶ月後に
閉店していた可能性があったなんて事を・・・。

 THE ROOMが今あるのは、
この粟田正勝さんのお陰だ。
THE ROOM(とMONDO GROSSO)は日本のみならず、
世界の音楽シーンに少なからずとも影響を与えて来た。
つまり、粟田さんの存在なくして、
その影響が起こる事はなかったのだ。
又、僕は、個人的にも、彼から多くの事を教わった。
DJとして生き残る方法。
音楽業界で圧倒的なインパクトを放つ方法。
自分より社会的に大きな相手と戦う方法。
そして、生きるという事において自分自身を輝かせる方法・・・。
決断の後押しや経済的な援助だけでなく、
精神面での助言があったからこそ、
THE ROOMは発展して来たし、僕もここまで来れたのだと思う。

 この春に発覚した末期ガンで闘病中であった彼が、
亡くなる4日ほど前に一緒に食事をしたのだが、
彼が僕達(佐藤強志とDJ KAWASAKIも同席していた)に
言ってくれた事が忘れられない。

「死ぬ前に何かやり残した事ないかなーと考えてみたんやけど、
実は、そんなにやりたい事ってないねんな。
もう、十分頑張ったし。思い残す事もない。
しいて言えば、船を買って、
毎日沖まで出る事かな、家族と。
船舶の免許も取ってんで。こんな状態やのに。
それから、富士山に登りたいかなー。
後は、渓流に行って釣り。
そんなもんや。
あ、
ルームにも行きたいねん。ほんまに。
クラブでの思い出が忘れられへんねんなー。
暗くって、
音が大きくって。
ライトがピカピカ光ってて。
そこで、酒を呑むのが楽しかった。
俺、こう見えてももの凄くクラブの事好きやってんで・・・」

 その翌週に古い仲間をTHE ROOMに集めようという話になった。
彼が好きなquasimodoにライブをやってもらうのはどうかとか、
大沢伸一君やbird、
GENTAさんや中村雅人に吉澤はじめさんにも声をかけないと
なんて事を話してもいたのだ。その矢先に・・・。

 幻のパーティーが開催される前に彼は息を引き取った。
まさかそんなに急に病状が悪化するとは思っていなかったから、
なす術はなかった。後悔先に立たずとはこの事だ。
最後にもう一度だけ、THE ROOMに彼を招待したかった・・・。

 奥さんからのリクエストで、
彼の葬儀の際に使うBGMを選曲した。
曲順を決めるのに、何度も何度も聴き直したけど、
涙が止まらなかった。
彼が好きだった曲。
一緒にNYに行った時、JAZZ CLUBで聴いた曲、
そして、僕がDJをしている時にブースまでやって来て
「これ何?」と尋ねた曲・・・。
音楽に触れている時の彼は、
僕の恩人でも後見人でもなく、
同級生であり、ただの友達に戻っていたなぁと思い出し、
それらを収録し一枚のCDにした。

 7年前に僕が彼から店を買い取ってから、
彼がTHE ROOMに頻繁に足を運ぶ事はなくなっていたけれど、
死ぬ前にやりたい事のリストに入れてくれていた事は驚きであり、
同時にとても嬉しい事でもあった。
強面で、男気のある彼が、
そんなにもTHE ROOMの事を気に入ってくれていた事を
亡くなる前に聞けて良かったと思う。
彼は、僕の夢に投資してくれたのではなく、
いつしか彼自身がTHE ROOMに夢中になっていたのだ。
彼との出会いが、この店を作り出し、
僕達の想いが、世の中にほんの少しでも作用した事は、
今となっては大きな誇りでもある。

 音楽業界は斜陽産業と言われ、クラブも音楽の質ではなく、
集客数や盛り上がりの成否が
問われるようになってしまった今日この頃。
THE ROOMを取り巻く状況は決して安泰ではないが、
彼の意思を引き継ぎ、これまで通り店を守って行きたいと思う。
やれ。
彼のその一言がTHE ROOMを、
僕を、
ここまで連れて来た事を僕は一生忘れないだろう。
 粟田正勝さん。御冥福を心からお祈りします。