「侍タイムスリッパー」は死と隣り合わせが魅力のコメディ映画 | 映画復元師シュウさんのブログ

「侍タイムスリッパー」は死と隣り合わせが魅力のコメディ映画

 

 

今話題の自主製作映画「侍タイムスリッパー」を観た。

寒いギャグや、設定的な無理はあるが、そんなの些末な事。

とにかく充分素晴らしい映画だった。

 

「刀=殺人のための武器」という真実から最後まで目を逸らさずにいるから、コメディなのにラストの緊張感が凄い。

「死」と隣り合わせなのを感じさせるストーリーで、ラストは別次元に。

まるで、北野武の「その男、凶暴につき。」みたいなシュールで狂気なラスト。

 

 

模造刀と真剣の音の差があればもっと良かったかなあ。

北野版「座頭市」で刀を振る音が、本当にギラギラした音で身震いしたっけ。

 

とにかく、「侍タイムスリッパー」は、SFであり、根底にはしっかり時代劇の精神が横溢。

正直、僕はそんなに時代劇は観ないんだけれど、この映画は、そういう「普段、時代劇を観ない人」にこそ観てもらいたい。

 

興味深いのは、劇中の撮影隊は「ラストの対決」を1カメで撮影していた点。 

正直、あの真剣勝負なら3カメは必要と感じた。

殆ど一発勝負の撮影(という設定)だからね。

 

すると殺陣の経験がある友人から興味深い解説が。

もし3カメだと、殺陣に「逃げ場」が無くなるから、通常は1カメで撮影して、後から「寄り画」を別撮りしてインサートするというのだ。 

なるほど!

 

と、ここで一旦納得したんだけれど、数人の映画関係者から、黒澤明は、マルチプル撮影を好んでいたと教えてもらう。

 

たしかに「七人の侍」では、ラストの大合戦でマルチプル撮影を採用していたのは有名な話だ。

複数台のカメラで、土砂降りの中、野伏と侍が駆け抜ける様子を活写した。

 

あれだけのテンションを繰り返し撮影するのは無理と判断したのかもしれない。

ただ、「七人の侍」の場合は、土砂降りの中、大勢の人物が入り乱れるから、殺陣の見切れは誤魔化せたと思う。

 

そうなると、「用心棒」や「椿三十郎」は、見切れをどうしていたのだろうか。

 

黒澤監督は、マルチプル撮影の際には、練習を何度も繰り返したというから、「見切れの位置」などを入念にチェックしてカメラを設置して、「逃げ場」を確保してから臨んだのだろうか。

 

ある映画関係者の方いわく、「基本、望遠で撮ってるので、ほとんどカメラは見えないから見切れとか気にせず殺陣は行われたし、仮に見切れても他のカメラの画を使えばいいだけですよ。

望遠でアクションを追うのは名人芸なんで、黒澤さんクラスじゃないと人材と機材を集められないんですよ(笑) 

あと、フィルムもカメラの台数分必要だし。

だからリハで完全にカット割も固めて撮影したわけです。

今はビデオでプレビズ作れますけどね。」

 

なるほど。

望遠カメラを使うのがミソなんだね。

見切れても、他のカメラを使えばいいわけだし。

 

とはいえ、大物監督ゆえの潤沢な資金と人材だからこそのマルチプル撮影なのかもしれない。

 

先の、殺陣を経験した友人が、京都府の出した「京都の撮影所で継承されてきた時代劇制作技術の基礎調査」という資料を探し出してくれた。

京都の撮影所で継承されてきた時代劇制作技術の基礎調査

 

これを読むと、「低コストで量産するためのスタジオ・システム」であり、「映画ではチーフ(ライティング対応等)、セカンド(ピント調整、芝居対応等)、サード(カメラメカニック)、フォース(カメラセッティング)の4名体制、テレビではチーフ、セカンドの2名体制が一般的です。」とある。

 

はっきりと「1カメが基本」とは書かれていないけど、1カメがメインであることは明白みたいだ。
ただ、その理由は「見切れ」の懸念ではなく、どこまでも予算の問題なのかな。
マルチプル撮影は贅沢な撮影方法で、中々出来ないのかもしれない。

 

ちなみに、他の映画関係者の方が仰っていたのは、西部劇の馬や銃撃のシーンでは、回すだけ回して使えるとこを選ぶらしい。

見切れたりスタッフが写ったりしても気にせず。

往年のハリウッド映画の舞台裏シーンでは、映り込みしても紛れるように、音響スタッフがインディアン装束でブーム持っていたとか。

 

映画は、ニセ物という大前提のもと、涙ぐましい努力が重ねられて来たんだね。

いかに本物に見せるか、どこまでリアルに描くか、その塩梅がキモなのだろう。

所詮は映画自体がフィクションだから、どこまでハッタリで押し切れるか、監督と観客の駆け引きな訳だ。