なんと!リンチ版デューン続編の幻の”書きかけ”脚本が発見されたぞ!
驚きのニュースが世界を駆け巡った。
なんと、リンチ版「デューン」の、続編の書きかけの脚本が発見されたという。
個人的に狂喜乱舞したのには訳がある。
僕が長年編集を繰り返していた”リンチの構想に可能な限り肉薄した”「デューン究極試写版」のラストについて、僕の解釈した編集が間違いだったのか、又は正しかったのか、その答えが「デューンⅡ」の脚本を読めば判断できるからだ。
結論で言えば、ガッツポーズだった!!!!
というワケで、脚本を発見した人物の記事を見てみよう。
構想された続編の内容が、詳細に記されているから、それだけでも貴重な内容である。
相当頑張って翻訳したから、長文だけれど、頑張って読んでほしいな。
英語の本文はコチラ。
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以下は、僕が翻訳したもの。
正直言って、色々誤訳があるかもしれないけれど、そこはご容赦を。
おかしいと感じた部分は、原文と比較してみてね。
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私は、デイヴィッド・リンチの幻のデューンⅡの脚本を手に入れた。
WIRED マックス・エヴリー 2024.1.18. 午前9時
まだ半分ほどしか書き上げていなかったにしても、デイヴィッド・リンチが1984年に発表した、フランク・ハーバートの続編小説『デューン/砂漠の救世主』の映画化のために書いた脚本は、原作よりもマシだった。
デイヴィッド・リンチが1984年に発表したSF大作『デューン』は、いろいろな意味で失敗作である。
しかし、過去の数本以上に及ぶ、決して効率的ではい”野心作”と同様に、リンチは、フランク・ハーバートの壮大な”国家の利益を優先させる物語”に、芸術的な装飾を施し、宇宙王朝の抗争を描いたことで、真のカルト・クラシックの地位を獲得した。
興行収入3,000万ドルにも満たず、公開時には酷評されたこの映画に続いて、もし、ハーバートの次の続編2作を映画化する機会を与えられたら、リンチはどうしただろうと、この映画のファンたちは今でも考えている。
つまり、『デューン/砂漠の救世主』『デューン/砂丘の子供たち』の2作である。
第1作が大コケする前は、フランチャイズ化が計画されており、リンチと主演のカイル・マクラクラン(ポール・アトレイデス役)は、1986年に『デューン』の続編を2作続けて撮影することになっていた。
プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティスは、第1作の宇宙船のミニチュア模型、衣装、小道具を、これらの続編で使用するために倉庫に保管した。
その間に、監督はデューンⅡの脚本に取り掛かった。
『リンチ・オン・リンチ(邦題:デヴィッド・リンチ /映画作家が自身を語る)』の中でリンチは、「私は2作目の『デューン』の脚本を半分書いたんだ。壮大な物語ではなく、近所で起きそうな物語に近かった。とてもクールな内容だったよ。」
私は著書「混乱する傑作: デイヴィッド・リンチの『デューン』口述史」の執筆に費やした2年間で、リンチの『デューンⅡ』の脚本を発見することができなかった。
1984年12月、フランク・ハーバートがプレヴュー誌に、『デューンⅡ』を所持し、リンチに助言していたと語っていたにもかかわらず…だ。
ハーバートは同誌に、「同じ『言語』を話せるようになった今、特に脚本に関しては、お互いに進歩することがずっと簡単になった。」と語っている。
そして2023年7月、カリフォルニア州立大学フラートン校にあるフランク・ハーバート・アーカイブスで、私は「デューン/砂漠の救世主の修正脚本」と書かれた付箋のついたスリムなフォルダーを見つけた。
そのフォルダーの中には、これまで公開されることのなかった、ファンにとっては夢のようなものが入っていた。
日付は「1984年1月2日から9日まで」で、56ページの分量。
リンチの「半分の脚本」という発言と一致する。
ハーバートによる注釈が書き込まれた『デューンII』の脚本は、リンチがまだこの素材に熱中していたことを示し、84年の映画の些細なディテールに、新たな意義を与えている。
彼はまた、ハーバートの1969年の小説『デューン/砂漠の救世主』の複雑な物語を語る方法を見いだした。
アクションよりも王宮の陰謀に重点を置き、典型的な英雄の旅にとって代わって、気の進まない独裁者(ポール・アトレイデス)の心の動揺が描かれるため、シリーズ中最も映画に向かない作品である。
原作への冒涜に聞こえる人もいるかもしれないが、リンチの『デューンII』はハーバートの本を凌駕する、地獄のような映画になっていただろう。
この記事を書いている間、私はリンチにコメントを求めた。
彼の『デューンII』の脚本について、公の場では詳しく語られたことがなかったからだ。
彼はアシスタントを通じて、「何かを書いたことはなんとなく覚えているが、完成させた記憶はない。」と述べた。
デューンは「彼の目には失敗作であり、考えたり話したりするのが好ましいタイミングではない」として、彼は丁重に私との会話を断っってきた。
リンチのテイスト
「私は『デューンII』の脚本を書いている。『デューン II』は、完全に『デューン/砂漠の救世主』で、作品のテーマのバリエーションになるんだ。「デューン/砂漠の救世主』はとても薄い本で、多くの人が好まないんだけど、その中には本当に気の利いたアイデアが詰まっているんだ。私はこの作品にとても興奮しているし、本当にいい映画になると思う。(1作目の)12年後に始まり、まったく新しい問題が発生する。... ムードが違うはずだ。...12年後の奇妙な出来事になるはずだ。」
-デイヴィッド・リンチ:スターバースト78号(1985年1月)
小説版『デューン/砂漠の救世主』とデイヴィッド・リンチの脚本版『デューン/砂漠の救世主』には多くの違いがあるが、最大の違いは冒頭のページにある。
映画『デューン/砂の惑星』第1作で、砂漠の惑星アラキスの首都であるアラキーンにある、アトレイデスの要塞をハルコンネン家が爆撃したシーンの余波で、何が起こったかを詳細に描いている。
ダンカン・アイダホ(リチャード・ジョーダン)が頭を撃たれた廊下では、盾にされた彼の死体が今も床に浮かび、鼻歌を歌い、火花を散らしている。
"ベネ・トライラクスは、デイヴィッド・リンチの好みにぴったりの、奇妙でおいしい悪役を生み出す。リンチは脚本で、彼らを解き放ったのだ。”
‐デューン研究家カーラ・ケネディ
影から現れたのは見慣れた顔、ハルコンネン男爵の医師(レオナルド・チミノ)だ。
リンチが、『デューン』のために特別に創作した、唯一セリフがある役だと思われていたこの医師は、実はハーバートの第2作のプロットにとって欠かせない変身を遂げる「フェイスダンサー」、サイテールだったことがわかる。
(訳注:フェイスダンサーは、ベネ・トライラクスによって育成された種族の一員。他の人物を模倣する能力に長け、スパイや暗殺者など多くの役割を担う。)
『デューン('84)』では、チミノ演じるこのドクターが、アラキーン襲撃時に、ハルコンネン男爵に同行していたことに気づかなかったかもしれない。
男爵が 「俺のドクターはどこだ?」と不気味に叫んでも、その後ドクターは出てこない。
ドクター/サイテールは、ダンカンの遺体を持ち去っていたからだ。
このオマケ要素(イースター・エッグ)は、リンチ流の世界観構築を最高のものにしている。
サイテールが「死んだダンカン・アイダホ」を、ヘイトという名のゴーラ(訳注:遺伝子操作されたクローンの一種)に生き返らせようとする、悪夢のようなベネ・トライラクスの世界(『デューン』でポールが言及)での12年間の旅は、脚本の冒頭10分全体を占めている。
リンチは惑星トライラクスを 「蒸し暑い化学物質と酸の運河がある暗い金属の世界」と呼んでいる。
さらにリンチは、これらの運河には「死んだピンク色の小さな試験管動物」が横たわっている書いている。
ハーバートの原作では、無数の陰謀家がポールに敵対していたが、『デューン II』の冒頭では、サイテールに焦点を当てたことで、サイテールは主要な敵役として前面に躍り出た。
発掘された脚本を読んだ、ウェブサイトDuneInfoの創設者マーク・ベネットは、「リンチが『デューン』製作中に気に入ったセットはギエディ・プライムで、機械や肉体の改造が彼の芸術的感性に合っていました。」と言う。
「リンチは『砂漠の救世主』のために、小説には描かれていないベネ・トライラクスを自分のスタイルに取り入れることにしたのです」。
この惑星は、サディストであるトライラクスによって運営されており、その言語("Bino-theethwid, axlotl")が彼らの異様な本性を物語っている。
特にシュールでリンチ的な一節は、サイテールが「ブギ・チューン」を歌うところだ:
「サイテールの友人たちは、笑いながら乱暴にビー玉を手の下で転がしている。彼らが見ているのはサイテールだ。サイテールは、たるんだホースのような肉でつながれた18個の頭と、その18個の口を通して歌っている。そして頭たちは、ピンクの部屋のあちこちで歌っている。ある男が口を開くと、小人の大群がサイテールの伴奏を口ずさみ流れ出て来る。別の男が放り投げた浮遊犬は空中で爆発し、誰もがみんな小さくなって、美しい絨毯の繊維に紛れてしまう。小さいながらも、彼らは皆笑い続ける。頭が一つになったサイテールは、大笑いしながら壁を這い上がる。」
(訳注:ごめんなさい。訳していても意味わからんチン。)
「ベネ・トライラクスは、リンチの好みにぴったりの、奇妙でおいしい悪役を生み出す。」と、デューン研究家のカーラ・ケネディは言う。「リンチは脚本で彼らを解き放っている。」
(著:フランク・ハーバートのデューン:批評の友/Frank Herbert's Dune: A Critical Companion)
サイテールは、"リビングルームとゴムのような手術室が混ざり合った、紫色の光が差し込む美しいホットピンクの部屋 "と表現される場所で、何年にもわたってアイダホに新しい命を吹き込む。
「フランク・ハーバートとディノ・デ・ラウレンティスが、リンチが『イレイザーヘッド』の続編を書いているのではないかと疑っているのは想像に難くない!」とベネットは言う。
サイテールの顔は、いくつかの箇所でアイダホに変化する "フェイスダンス "を行っているが、これはロン・ハワード監督の1988年の映画『ウィロー』のために開発されたモーフィングより前の話だから、初期の技術が必要だったのかもしれない。
「リチャード・ジョーダンが演じたダンカン・アイダホが、『デューン/砂漠の救世主』以降でのブレイクを約束したキャラクターにするために、『デューン』での存在感を小さくすることに同意したのを覚えています。」と、スティルガー役の俳優、エヴェレット・マクギルは、公開された脚本を読んだ後、私に語った。
「デイヴィッドがこの物語の冒頭で、死んだダンカン・アイダホの蘇生を、楽しくて耳障りなリンチ特有のイメージの中で描いているのは驚くことではありません」
フランケンシュタインの怪物のようなダンカンの蘇生に続いて、サイテールは、赤毛のアブルード・ハルコネン2世(ウラジミール男爵の異母弟/今は亡きフェイドとラバンの父)より、皇帝ポール・アトレイデス(現在はムアドディブ)の元から砂虫を盗む手助けをしてほしいという、新たな任務を受ける。
このデミ・アブルードは、ハーバートの本では実質的な役割を果たさず、「付録」ページで言及されている。
「アブルードを使って、リンチはハルコンネンを物語に残す方法を見つけようとしたのでしょう」とケネディは言う。
「リンチは、彼らのキャラクターを作るのを楽しんでいたが、オリジナル映画の終わりには全員死んでいたから。」
この中途半端な脚本には、リンチの暫し中傷される”内なる声”のモノローグも復活している:
「そうだ......このサイテールはいいディストランスになる......知らず知らずのうちに......そうだ!」
(知らない人のために説明しておくと、"ディストランス "とは本来、ウィリアム・ギブスンの小説『記憶屋ジョニイ』のように、キーワードでロックを解除できるメッセージを埋め込まれた、人や動物のことだ。
進軍命令を受けたサイテールはハイライナーに乗り込み、雪の惑星ワラーチIXに向かうが、そこで彼とイルラン王女、教母モヒアム、ギルドの航海士は、ポールの失脚を画策する。
ここから本編が始まるため、脚本は『(原作)デューン/砂漠の救世主』によく似ている。
『ツイン・ピークス』などでリンチと頻繁にコラボレートしてきたマクギルは、「『デューン/砂漠の救世主』は問題の多い続編だった」と言う。
「1作目の疾走感あふれる冒険は、2作目では市民行政の苦労話に変貌する。帝国を維持することは、多くの会議や命令、陰謀を生む。デイヴィッドの”治療”は、彼が物語に対して懸命に取り組んでいたことを示している。」
ポールの儀式を執り行う正妻イルラン(ヴァージニア・マドセン)は、12年の歳月をかけて「宇宙中から集められた奇妙でエキゾチックな植物が生い茂る庭園」に囲まれた新しい建物によって変貌したアラキーン(訳注:デューンの首都)に戻る。
その中心には純金の宮殿があった。
1984年の『デューン』のラストでは、神のような存在になったポール・アトレイデスが、アラキスに初めて雨を降らせ、砂虫を全滅させた(水は砂虫を溺死させる)。
『デューン II』の草稿では、その雨降らしを認めているが(イルランはポールに「二度と雨を降らせないつもりですか」と尋ねている)、ポールが地下の巨大な玉座の間で飼っている砂虫を含め、いまだに砂虫は暴れまわっており、脚本では「宇宙最大の部屋で、長さ10マイル、天井800フィートの純金製の進入通路がある」と表現している。
ハーバートは小説の中で、会話を通してフレメンたちの動揺を示したが、リンチは脚本で、ポールの支配に対する反対を、より映画的な形、つまりナイフの戦いによって表現した。
匿名のフレメンの戦士がポールに決闘を申し込むが、ポールのパートナーであるチャニ(リンチの処女作と同じくショーン・ヤングが演じていたはず)は、「ポールにとどめを刺すなら、まずは彼女を殺さなければならない」と言う。
チャニはこの戦士を短時間で仕留め、2発の蹴りと首へのナイフで彼を地面に倒す:
「私が殺せば......ポールの妾姫でさえ、挑戦者の中で最も強い者を殺すという噂が広まる。」
このシーンは、ヤング演じるチャニが獰猛な格闘家であることの見せ場でもある。
訓練されたダンサーでありアスリートであるにもかかわらず、『デューン』では本格的な戦いの振り付けはなかった。
「あのショーでは大きな戦いはなかった。」と、ヤングは私の本のインタビューで語っている。
次に、ポールは彼のトレードマークである夢のビジョンを見る。
その中で彼は広大な血の海を見るが、これは彼の聖戦シハードが宇宙にもたらした恐怖の隠喩である。
とらえどころのない、目に見えない意識がポールに呼びかけ、それが "悲鳴を上げる巨大な黒い振動する柔らかい立方体 "に変わるまで影に隠れて見えない。
チャニがポールを起こし、二人は(正妻である)イルランに、跡継ぎを産ませるかどうかで言い争う。
街では、ダンカンに変装したサイテールが、ポールのかつての忠実な部下ファロックを殺害し、ポールが信頼するフレメン兵士オタイム(『デューン』のホノラート・マガローニ)の娘リヒナを誘拐する。
一方、ポールは評議会を開き、10代になった妹アリア(以前は7歳のアリシア・ウィットが演じた)を大々的に登場させる:
「セクシーで17歳、ベネ・ゲッセリット教母のとても美しいバージョンのローブを着ている。」
リンチは、最初の『デューン』の時に、女優ジェニファー・ジェイソン・リーのオーディションを受け、キャスティング・ディレクターのジェーン・ジェンキンスに "成長したアリア "として彼女を指名していた。
ギルド・ナビゲーター(変異した宇宙ギルドのリーダーの一人)が、ポールへの「貴重な贈り物」として、ダンカン/ゴーラを携えて巨大なテラリウムに到着する。
(ダンカン/ゴーラは、今では「ヘイト」と呼ばれ「ベネ・トライラクスの金属の目」を持つ)
マクギル演じるスティルガーは危険を察知する:
「陛下、私はこの水槽の中の生き物に戦慄を覚えます。しかし、この贈り物は!さっさと追い払え!!」
「スティルガーが、ゴーラ・ダンカン・アイダホの贈り物で大騒ぎするのはとても気に入っているよ」とマクギルは言う。
「彼はそれを大きな脅威であり、スティルガーが知っていた男の忌まわしい成れの果てだと考えている。私は、スティルガーがまだ、ポールの統治権を牽制する役目を果たしているのが嬉しかった。」
一方、シアン・フィリップス演じる教母モヒアム(第1作の原作や映画に登場した、ポールと敵対するベネ・ゲセリット)は、ギルドのハイライナーから外され、スティルガーの監視下で独房に入れられる。
イルランと、投獄されたモヒアムが、手話で秘密の二次的な会話を行うシーンは素晴らしい。
ここは、ナレーションで翻訳される。
教母は、チャニが妊娠したら暗殺し、ポールとアリアの近親相姦を強要するようにと、イルランに密かに指示する。
「イルランとモヒアムの手話は小説の中にも出てきますが、小説では実際の会話というよりは、何が語られたかが述べられます。だから、リンチは多くの "新しい "台詞を書かなければならなかったのです。」とベネットは言う。
これは、アリアが裸のままで剣を持った訓練ロボットと戦うという、象徴的な瞬間につながることは間違いない。
ここは小説からの引用だが、リンチはイルランがアリアを監視し、兄との性的緊張を不器用に示唆しながらアリアを煽るという要素を加えている。
ポールは、ますます速く危険になるロボットを止めるために部屋に入り、アリアの裸体を目撃する。
イルランはポールとアリアが惹かれ合っている可能性を察知するやいなや、泣き崩れ、ギルドの陰謀を2人に告げる。
本来この告白は小説だと後半で行われるのだが、ハーバートのペンは、脚本のこの部分を消し去している。
つまりハーバートはこの変更を好んでいたわけではないようだ。
しかし、この変更はプロットを前進させる。
警察小説を彷彿とさせるシーンでは、ダンカンとアリアは、発見されたサイテールの誘拐被害者リヒナの遺体を調査する。
リヒナは、頭を潰され、両手が欠けている。
「誰かが彼女の身元を隠したかったのだろう。」とダンカン刑事は指摘する。
アリアはこれらの発見をポールに伝え、(彼女が激しく惹かれている)ヘイト/ダンカンを追い払うよう警告する。
チャニはアリアに妊娠していることを明かす。
次に、チャニと、警備員のバナジーは、リヒナ(本物のリヒナは死んでいるので、実際は変装したサイテール)を片付けて、ポールに対するフレメンの陰謀を知るために、ポールはファロクに行かなければならないというメッセージを伝える。
サイテールの変装を見抜いていたにもかかわらず、ポールは一人でファロクを訪ねることに同意する。
リンチの脚本はここで終わっている。
興味深いことに、ハーバートは最終ページの裏に謎めいた走り書きのメモを残していた。
プロジェクトの終わりが差し迫っていることを考えると、先見の明のあるメモであった:
「隠喩:ポールのブーツ(砂時計)」。
救世主的傾向
リンチの『デューンⅡ』の脚本は、物語の途中で唐突に終わっているので、ポールの視界が石焚きで焼かれるシーンで『ツイン・ピークス』の興行主が何をしたのかはわからない。
『デューン』1作目で、フレメンの青い目の視覚効果を担当したバリー・ノーランは、ポールが負傷して黒くなった目のバージョンをテストした。
「私はこう言ったんだ。『ここで2回目をやるなら、私は彼の目を黒くしたい。』とね。」とノーランは私の本で語っている。
「デビッドは、とても素晴らしいと思っていたよ。」
政治的盲目という点では、脚本が未完成であったため、一般的に自由主義者寄りのリンチが『デューン』の政治をどのように考えていたのかが未解決のままになっている。
ハーバートの小説やドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『デューンPART1(2021)』では、ポールは全ての聖戦を終わらせるための聖戦を始めることに消極的だ。
リンチの「デューン」には、それがほとんどない。
ハーバートは、カリスマ的指導者を信用すべきでない理由を明らかにすることが、『デューン』全体の物語の本質だと述べている。
その本質の消去は商業的な配慮なのか、それともリンチの比較的非政治的な性格を反映したものなのか?
彼は、レーガンやオバマに投票し、インタビュアーのリチャード・バーニーには「政治的な人間ではない」と語ったかもしれないが、『デューン/砂漠の救世主』を脚色すれば、リンチはポールを真の英雄とみなすのか、それとも610億人の人々を殺した、消極的な恐怖とみなすのか、どちらかの二者択一を迫られただろう。
「脚本には、いくつか原作のシーンが欠けています。そのほとんどは、プロットを進展させない言葉遊びです。」とベネットは言う。
「「デューン」のファンの間では、『ポールは英雄なのか』という議論は人気だけれど、ポールがスティルガーとコルバに、いかに自分がヒトラーよりも多くの人を殺したかについて話すシーンがないのです。脚本は、ポールの十字軍による『その側面』を踏みにじっているようです」。
ヴィルヌーブ版『デューンPART1』では、ポールがアラキスに出現するという "予言 "は、ベネ・ゲッセリットによってフレメンに仕組まれたものだった。
このように、ヴィルヌーブ版は、より原作に忠実なポールの描写の軌跡を踏まえている。
そこで、近々公開される『デューンPART2』では、(ナチスによる)ニュールンベルク的なポールの集会があるので、ヴィルヌーヴ監督が『デューン/砂漠の救世主』も最終的に映画化することになれば、ポールの悪役に転向する様子を取り上げるに違いない。
40年前、リンチが自身の映画『デューン』を宣伝していたときと同様、ヴィルヌーヴは最近の記者会見で、次回作について強気な発言をしている。
「この映画をやることは、私にとって絶対的な意味がある。『デューン/砂漠の救世主』を今まさに執筆中だ。脚本はほぼ完成しているが、もう一歩だ。少し時間がかかるだろう。」
ヴィルヌーヴは、リンチが採用したのと似たような方法で、この原作をさらに発展させようとするかもしれないが、この素材に内在するシェイクスピア的な悲劇を考えると、フランチャイズを構築するような超大作にはならないかもしれない。
「『デューン/砂丘の救世主』は、『デューン』のような壮大なアドベンチャーにするつもりはなかった。」とマクギルは語っている。
「この物語は、酔いしれるような反乱の後の、冷静な現実を描いており、我らの救世主は、コウモリのように盲目になって、砂漠をさまようことになるのだ。」
ケネディは『デューンII』についてこう付け加える。
「リンチは、彼の映画では決して気にしていなかったような、英雄的な人物を支えようとする重荷がない分、この素材に馴染みやすく、悪役の奇妙さや派閥のいざこざを探求できるようだった。登場人物はより骨太で、動機はより曖昧、リンチはこの脚本で、その奇妙さに傾倒していたんだ。」
『デューン』のプロットが引き継がれているが、リンチの『デューンⅡ』の脚本は、単に好奇心をそそるだけではない。
ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』がそうであるように、リンチが思い描いたようなやり方で今日でもフランチャイズとして成立しうるはずだ。
ダークで洗練された、目を見張るほど奇妙な映画的オデッセイとして、ハーバートのSF作品をスクリーンに呼び起こしたのだから。
例えばそれは、奇妙な音声モジュール、心臓プラグ、フェイスダンサーなどなど......。
リンチは、2013年に語っている。
「私は『デューンII』に夢中になっていた。脚本の半分くらい、いやもっと書いたかもしれない。ずっとタイトで、もっといいストーリーだったんだ。」
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いんやあ、刺激的な内容だよね。
主な内容を挙げると…
・全体の半分まで脚本開発は進んでいた。
・なんとダンカンが、続編で早くもゴーラとして復活!
※本来は、もっと先の話で復活するらしい。
・前作の活劇物から一転、宮廷陰謀劇へ
・アラキスに降った雨は一過性のもの。
・ベネ・トライラクスを独自に登場させる。
・ハルコンネン男爵の従医サイテールが、フェイスダンサーという殺し屋として再登場!
・サイテールがブギ・チューンを歌う、どぎついイメージ!
などなど…
やはりリンチは、最高にヘンタイで、最高にアーティスト、そして重要な点として、しっかりとエンターテイナーであるという事が挙げられる。
自分の持ち味と、いかに作品を面白くするのか、というせめぎ合いの中で、面白い物を作ろうとしていたんだと分かる。
もし実現していたら、一人よがりの作品にはならなかったと思える。
なお、この記事で僕が一番興奮したのは、やはりコレ。
リンチは続編でも、1作目のラストで「雨を降らしたこと」に言及しており、雨を降らしたことは、リンチの考えだったと思われる点だ。
これまでにも何度も語って来たけれど、リンチは第6稿までは、原作同様に、ラストで雨を降らせていなかった。
だが一転して、第7稿(最終稿)では、ポールの力によって雨が降っている。
やはり雨を降らせるラストをリンチは望んでいたのだろう。
多くのファンは、1作目のラストで雨が降ることに異を唱えて、批判が凄かったらしい。
ハーバートの原作を蔑ろにしたとの意見だからだ。
だから、ファン・エディットの最高峰の一つ、「スパイスダイバーカット」でも、ラストで降る雨のシーンは削除されている。
↑これは、スパイスダイバーさん編集の長尺版を4Kにアップコンした動画だ。
とても貴重なバージョンだし、多くのデューンファンの意見が反映されているから、”決定版”といえる。
ただし…だ。
これは、ハーバートの原作に忠実ではあるけれど、果たして、リンチの求めていた物語と言えるのか?
僕が復元した「究極試写版」は、あくまでもリンチの構想に沿って物語を再構築した。
だから、フレメンの男たちがこれまで超人クイザッツ・ハデラッハになれなかったのはギルドが黒幕として暗躍していたからだしし、ラストでは雨だって降る。
究極試写版は、ハーバートの原作からは離れるけれど、リンチの構想にはより近くなったと考える。
相当悩んだのだけれど、やはり究極試写版は、スパイスダイバーカットに倣わなくて良かったかな。
現時点では、究極試写版が、一番リンチの構想に近いと断言したい!
(あくまでも自称だけれどねぇ🥰)