その男、凶暴につき [Blu-ray]
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今回、久しぶりの劇場体験だったが、嬉しいフィルム上映だった。
フィルムノイズ、いわゆる「雨」が凄かったが、映画自体は全く古びない。
やはり、死ぬほど好きだと痛感した。
ラストの、主人公 我妻の虚な眼が忘れられない。
野沢尚脚本には無い表情なんだよね。
映画は、完全に北野作品だったと再確認した。
有名な話だけど、本来は、深作欣二監督で企画はスタートした。
主演、ビートたけし。
野沢尚は、その中で脚本を書いたのだ。
しかし、たけしと深作のスケジュールが噛み合わず、深作が降りてしまった。
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【補足2024.3.27】
プロデューサーの奥山和由さんいわく、スケジュールが理由での降板を全面否定している。
詳しくは、奥山さんの「X」に詳しい)
https://x.com/teamokuyama2017/status/1772376030092673190?s=20
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そのため、北野武自身が監督、ビートたけし主演というカタチで再スタート。
撮影段階で、北野は野沢尚の脚本をどんどん変えてしまい、結果的に映画は、脚本とは大筋は同じでも、細部は全く別モノと言える位に内容が違っていた。
映画版は、(善し悪しは抜きにして)小ネタの積み重ねだ。
それに対して、野沢尚脚本は、エピソードの積み重ねだ。
脚本の方が、エピソード同士が密接だけど、映画だと小ネタの積み重ねだから、そのネタ内で話が完結している。
ぶっちゃけ無くても成立しちゃう。
でも、辛うじてネタ同士がリンクしているから、どれ一つ抜いても、ダメなんだよね。
厄介な映画だなあ。
多分、当時の北野監督は、ラストが決まった一つの物語を細かく区切るのではなく、小ネタの積み重ねの結果に、相応しいラストが来る、という計算だったのではと感じる。
だから、脚本と映画でラストが大幅に変わるのは必然なんだろう。
ラストのたけしの表情が本当に凄い!!
野沢尚の脚本だって相当面白いんだけど、相手が悪かった。
深作監督だったら、脚本の持ち味を引き出す方向だったのでは、と夢想する。
願わくば、深作欣二監督、野沢尚脚本、泉谷しげる主演の「その男、凶暴につき」も観たかった。
北野映画とは違う、もっとほとばしる激情を表現したかもしれない。
想像だが、実現しなかった残念さが、深作監督を「いつかギラギラする日」に向かわせたのか…