「その男、凶暴につき」映画と脚本の狭間で | 映画復元師シュウさんのブログ

「その男、凶暴につき」映画と脚本の狭間で

 

新文芸坐にて、久しぶりに「その男、凶暴につき」を観た。

劇場で観るのは何年ぶりかしら😝
場内は、メチャクチャ若い人が多かった。
それも、男女比6:4位。
 
北野映画だよ!
それも1989年制作だから、四半世紀前の映画だよ。
 
なぜだ?
めっちゃ嬉しいなあ😆

今回、久しぶりの劇場体験だったが、嬉しいフィルム上映だった。

 

フィルムノイズ、いわゆる「雨」が凄かったが、映画自体は全く古びない。

やはり、死ぬほど好きだと痛感した。

 

ラストの、主人公 我妻の虚な眼が忘れられない。

野沢尚脚本には無い表情なんだよね。

映画は、完全に北野作品だったと再確認した。

 

有名な話だけど、本来は、深作欣二監督で企画はスタートした。

主演、ビートたけし。

野沢尚は、その中で脚本を書いたのだ。

 

しかし、たけしと深作のスケジュールが噛み合わず、深作が降りてしまった。

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【補足2024.3.27】

プロデューサーの奥山和由さんいわく、スケジュールが理由での降板を全面否定している。
詳しくは、奥山さんの「X」に詳しい)
https://x.com/teamokuyama2017/status/1772376030092673190?s=20

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そのため、北野武自身が監督、ビートたけし主演というカタチで再スタート。

 

撮影段階で、北野は野沢尚の脚本をどんどん変えてしまい、結果的に映画は、脚本とは大筋は同じでも、細部は全く別モノと言える位に内容が違っていた。

 

映画版は、(善し悪しは抜きにして)小ネタの積み重ねだ。

 

それに対して、野沢尚脚本は、エピソードの積み重ねだ。

脚本の方が、エピソード同士が密接だけど、映画だと小ネタの積み重ねだから、そのネタ内で話が完結している。

ぶっちゃけ無くても成立しちゃう。

 

でも、辛うじてネタ同士がリンクしているから、どれ一つ抜いても、ダメなんだよね。

厄介な映画だなあ。

 

多分、当時の北野監督は、ラストが決まった一つの物語を細かく区切るのではなく、小ネタの積み重ねの結果に、相応しいラストが来る、という計算だったのではと感じる。

 

だから、脚本と映画でラストが大幅に変わるのは必然なんだろう。

 
映画版は、ビートたけしが主演でしかあり得ない。

 

対する野沢尚脚本は、(どの段階なのかは失念したが)キャスティング候補として打診されていた、泉谷しげるが相応しいと感じた。
脚本での主人公は、感情が伴った「凶暴」さを描いているので、泉谷がうってつけなのだ。
 

 

それに比べると、映画の主人公は「凶暴」というより「狂気」を纏っていると感じた。

ラストのたけしの表情が本当に凄い!!

 

野沢尚の脚本だって相当面白いんだけど、相手が悪かった。

 

深作監督だったら、脚本の持ち味を引き出す方向だったのでは、と夢想する。

 

願わくば、深作欣二監督、野沢尚脚本、泉谷しげる主演の「その男、凶暴につき」も観たかった。

 

北野映画とは違う、もっとほとばしる激情を表現したかもしれない。

 

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【補足】
その後、プロデューサーの奥山さんいわく、企画開発の初期から、ビートたけしありきの映画だと「X」にて仰っていた。
なので、泉谷しげるがキャスティングに上ったという話自体がちょっとガセっぽい気がしてきた。
恥ずかしながら情報源があやふやだから、ネタ半分で受け流してほしい。
なお、「泉谷キャスティング」という流れで、僕が納得してしまったのにはワケがある。
泉谷しげるは足が悪いらしい。
だからこそ、映画では歩くシーンを多く作って、足を引きずりながら歩き回る泉谷を切り取りたかった・・・という話だったのだ。
まあ、実際のところはどうなのか・・・。
情報をお持ちの方は是非ご教示願いたい。
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想像だが、実現しなかった残念さが、深作監督を「いつかギラギラする日」に向かわせたのか…