読書シリーズの第二弾になります。今回は島崎藤村の「夜明け前」を選びました。思えば、前回の「武田勝頼」は甲斐武田家の滅亡を書いた小説でしたが、今回は見方によれば江戸幕府徳川家の滅亡の話とも考えられます。それで、この小説を選んだという理由もありますが...この本の出版は昭和48年となっていました。全体的に日焼けして変色してはいますが、その度合いは若干の程度なので読むのに問題はありません。どうやら誰も一度も読んでいないようです。この本は出版されてから今までどのような変遷を辿って来たのか想像もできませんが、誰かに一度は読まれたほうがこの本にとっても幸せではないかとも思うのです。

 古典・名作の類はフリーの電子書籍として公開されていて手軽に読めるような時代になりましたが、それでも、自分が小さな子供の頃に出版された昭和の書籍を、肌触りを楽しみながら頁をめくって読んで行くのもまたよろしいのではないでしょうか。

今回は、生麦事件です。幕府は攘夷運動を何とか抑え込もうとしますが、逆に尊王攘夷という方向に激化し、討幕運動へと向かいます。

 

1-7-1 「生麦事件」

文久三年は当時の排外熱の絶頂に達した年です。かねて噂のあった将軍家茂の上洛は、その声のさわがしい真っ最中に行われました。しかし京都にはこれを機会に、うんと関東方の膏を絞ろうという人たちが待っていました。もともと真木和泉らを急先鋒とする一派の志士が、転嫁の変革の兆もあらわれたとし、王室の回復も遠くないとして、攘夷をもってひそかに討幕の手段とする運動を起したのは、すでに弘化安政のころからです。尊王攘夷は実にこの討幕運動の旗印でした。

横浜襲撃が諸浪士によって企てられているとの噂は幾回となく伝わったばかりでなく、外人に対する迫害沙汰も頻々として起こりました。外人を保護するため幕府方で外国御用の出役を設置し、三百余人の番衆の子弟をしてそれに当たらせるなぞのことがあればあるほど、多くの人の反感はますます高まるばかりです。そこへ生麦事件が起こります。

四人の外人の死傷に端緒を発するこの事件は、外交の危機にまで推し移ります。けれどもこのことは攘夷派の顧みるところとはなりませんでした。討幕へと急ぐ多くの志士は、むしろこの機会を見逃すまいとしたのです。当時、京都にあった松平春嶽は、公武合体の成功もおぼつかないと断念してか、事多く志と違うというふうで、政事総裁の職を辞して帰国したといい、急を聞いて上京した島津久光もかなり苦しい立ち場にあって、これも国もとの海岸防御を名目に、わずか数日の滞在で帰ってしまったということでした。

 

1-7-2 「御岳神社への参籠」

香蔵は美濃中津川の問屋に、半蔵は木曽馬籠の本陣に、二人は同じ木曾街道にいて、京都の様子を案じ暮しましたが、とうとう四月のはじめには、香蔵も景蔵の後を追って京都の方へ出かけて行きました。三人の友達の中で、半蔵一人だけが馬籠の本陣に残りました。

その時になると、彼は中津川の問屋の仕事を家のものに任せておいて京都の方へ出かけて行くことの出来る香蔵の境涯を羨ましく思います。父吉左衛門は、と見ると、病後の身をいたわりながら裏二階の梯子段を昇ったり下りたりする姿が半蔵の眼に映ります。

「お民、俺は王滝まで出かけて行って来るぜ。後のことは、清助さんにもよく頼んでおいて行く」

と半蔵は妻に言って、父の病を祈るために御岳神社への参籠を思い立ちました。

「半蔵さん、君はお出かけになるところですかい」

と言って、勝手を知った囲炉裏ばたの入口の方から入って来た客は、他の人でもない、三年前に中津川を引き揚げて伊那の方へ移って行った旧い師匠、宮川寛斎でした。無尽加入のことを頼んでおいて、やがて寛斎は馬籠の本陣を辞して行きました。後には半蔵が上り端のところに立って、客を見送りに出たお民や彼女が抱いて来た三番目の男の児の顔を眺めたまま、しばらくそこに立ち尽くしました。

 

 

京都で攘夷倒幕の動きが激しくなる中、半蔵は父親の病を気遣い、馬籠を離れることができません。仕方なく御岳神社への参籠を計画しますが、半蔵の忸怩たる思いのようなものも伝わって来ます。

 



夜明け前より瑠璃色な -Moonlight Cradle- 3Dマウスパッド/ブロッコリー
¥926
Amazon.co.jp