読書シリーズの第二弾になります。今回は島崎藤村の「夜明け前」を選びました。思えば、前回の「武田勝頼」は甲斐武田家の滅亡を書いた小説でしたが、今回は見方によれば江戸幕府徳川家の滅亡の話とも考えられます。それで、この小説を選んだという理由もありますが...この本の出版は昭和48年となっていました。全体的に日焼けして変色してはいますが、その度合いは若干の程度なので読むのに問題はありません。どうやら誰も一度も読んでいないようです。この本は出版されてから今までどのような変遷を辿って来たのか想像もできませんが、誰かに一度は読まれたほうがこの本にとっても幸せではないかとも思うのです。

 古典・名作の類はフリーの電子書籍として公開されていて手軽に読めるような時代になりましたが、それでも、自分が小さな子供の頃に出版された昭和の書籍を、肌触りを楽しみながら頁をめくって読んで行くのもまたよろしいのではないでしょうか

今回は、将軍の後見に一橋慶喜、政事総裁に松平春嶽、京都守護職に松平容保、そして新撰組といった幕末の主要人物が登場して来ます。

 

1-6-4 「跡取り」

一人の旅人が京都の方面から美濃の中津川まで急いで来ました。この旅人は長州の学塾有備館の用掛りをしていた男ざかりの侍で、かねて長州と水戸との提携を実現したいと思い立ち、水戸の有志と会見した閲歴を持つ人です。

中津川の本陣では、半蔵が年上の友人景蔵も留守のころであり、この旅人は恵那山を東に望むことの出来るような中津川の町をよろこび、人の注意を避くるにいい位置にある景蔵の留守宅を選んで、江戸麻布の長州屋敷から木曽街道経由で上京の途にある藩主(毛利慶親)をそこに待ち受けていました。

半蔵は父の名代として、隣家の伊之助や問屋の九郎兵衛とともに一行を宿はずれの石屋の坂あたりまで見送り、そこから家に引き返して来て、父の部屋を覗きに行きました。病後の吉左衛門には、まだ二階へ行って静養するほどの力がありません。四月の発病以来、ずっと寛ぎの間に臥たり起きたりしています。

中津川の会議が開かれて、長州の主従が従来の方針を一変し、吉田松陰以来の航海遠略から破約攘夷へと大きく方向の転換を試み始めたのも、薩藩とともに叡慮の貫徹に尽力せよとの御沙汰を賜ったのも、六月の二十日から七月にかけてのことでした。時代はおそろしい勢いで急転しかけて来ました。一橋慶喜は将軍の後見に、越前藩主松平春嶽は政事総裁の職に就きます。

吉左衛門と半蔵の親子の胸には、一橋慶喜と松平春嶽とが英断した参勤交代制度の変革のことが往来していました。その時になって見ると、江戸から報じて来る文久年度の改革には、ある悲壮な意志の歴然と動き始めたものがありました。参勤交代のような幕府にとって最も重要な政策が惜し気もなく投げ出されたばかりでなく、大赦は行われる、山稜は修復される、京都の方へ返していいような旧い慣例はどしどし廃されました。井伊大老在職の当時に退けられた人材はまたそれぞれの閑却された位置から身を起しつつあります。門閥と兵力とにすぐれた会津藩主松平容保は京都守護職の重大な任務を帯びて、新たにその任地へと向かいつつあります。

とうとう、半蔵は父の前に呼ばれて、青山の家に伝わった古い書類なぞを引き渡されるような日を迎えました。秋になって、福島の役所からの剪紙(召喚状)が届きます。半蔵も心を決し、彼は隣家の伊之助を誘って福島をさして出かけました。

宮様御降嫁の当時、公武一和の説を抱いて供奉の列の中にあった岩倉、千種、富小路の三人の公卿が近く差控えを命ぜられ、つづいて蟄居を命ぜられ、すでに落飾の境涯にあるというほど一変した京都の方の様子も深く心にかかりながら、半蔵は妻籠本陣に一晩泊った後で、また連れと一緒に街道を踏んで行きました。

 

1-6-5 「暮田正香」

将軍上洛の前触れとともに、京都の方へ先行してその準備をしようとする一橋慶喜の通行筋は木曾街道で、旧暦十月八日に江戸発駕という日取りの通知まで来ているころでした。しかし数日の後、一橋慶喜の上京がにわかに東海道経由となったことを知ります。

年も暮れて行きました。明ければ文久三年です。将軍上洛の日も近いと聞く新しい年の二月には、新撰組の一隊をこの街道に迎えます。一番隊から七番隊までの列をつくった人たちが雪の道を踏んで馬籠に着きました。

二月も末になって、半蔵のところへ一人の訪問者があります。先輩の暮田正香でした。半蔵と同国の人ですが、かつて江戸に出て水戸藩士藤田東湖の塾に学んだことがあります。

「青山君、やりましたよ」

土蔵で二人ぎりになった時、正香はそんなことを言い出しました。同志九人、その多くは平田門人あるいは準門人ですが、等持院に安置してある足利尊氏以下、二将軍の木像の首を抜き取って二十三日の夜にそれを三条河原にさらしものにしたといいます。

半蔵はそう長くこの珍客を土蔵の中に隠しておくわけに行きませんでした。早く馬籠を立たせ、

清内路までは行くことを教えねばなりません。清内路まで行けば、そこは伊那道にあたり、原信好のような同門の先輩が住む家もあったからです。

最早、暖かい雨がやって来ます。一橋慶喜の英断に出た参勤交代制度の変革の結果は、驚かれるほどの勢いでこの街道にあらわれて来るようになりました。堅固で厳重な武家屋敷の内に籠り暮らしていたどこの簾中とかどこの若殿とかいうような人たちが、まるで手足の鎖を解き放たれたようにして、続々帰国の旅に上って来るようになりました。 

 

 

参勤交代制度の変革の影響は、馬籠のような街道の宿場町では即座にあらわれたのでしょう。それ故、日本の国が変わりつつあることを実感したのだと思います。そして、半蔵親子の間にも世継ぎの時期が来たのでした。

 




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