読書シリーズの第二弾になります。今回は島崎藤村の「夜明け前」を選びました。思えば、前回の「武田勝頼」は甲斐武田家の滅亡を書いた小説でしたが、今回は見方によれば江戸幕府徳川家の滅亡の話とも考えられます。それで、この小説を選んだという理由もありますが...この本の出版は昭和48年となっていました。全体的に日焼けして変色してはいますが、その度合いは若干の程度なので読むのに問題はありません。どうやら誰も一度も読んでいないようです。この本は出版されてから今までどのような変遷を辿って来たのか想像もできませんが、誰かに一度は読まれたほうがこの本にとっても幸せではないかとも思うのです。

 古典・名作の類はフリーの電子書籍として公開されていて手軽に読めるような時代になりましたが、それでも、自分が小さな子供の頃に出版された昭和の書籍を、肌触りを楽しみながら頁をめくって読んで行くのもまたよろしいのではないでしょうか。

今回は、和宮様の御降嫁が行われます。

 

1-6-1 「願書」

和宮様御降嫁のことがひとたび知れ渡ると、沿道の人民の間には非常な感動を喚び起こしました。おそらくこれは盛典としても未曾有、京都から江戸への御通行としても未曾有のことであろうと言われます。木曽谷、下四宿の宿役人としては、しかしただそれだけでは済まされず、彼らは一度は恐縮し、一度は当惑しました。多年の経験が教えるように、この街道の輸送に役立つ御伝馬には限りがあります。多数な人馬を用意し、この未曾有の大通行に備えなければなりません。

寿平次は妻籠の本陣にいます。彼はその自宅の方で、伊那の助郷六十五ヵ村の意向を探りに行った扇屋得右衛門の帰りを待ち受けています。得右衛門の報告は、寿平次が心配して待っていたとおりでした。今度という今度は、容易に請状も出しかねるというのが助郷側の言い分でした。伊那助郷が木曽にある下四宿の宿役人を通し、あるいは直接に奉行所に宛てて愁訴を企てたのは、その日に始まったことでもありません。

とりあえず寿平次らは願書の草稿を作りにかかりました。伊那方面は当分たりとも増助郷にして、この急場を救い、併せて百姓の負担を軽くしたい、次に御伝馬宿々については今回の御下向のため人馬の継立て方も嵩むから、その手当として一宿へ金百両ずつ貸し渡されるよう、ただし十ヵ年賦にして返納する、下書きは出来ました。そして各庄屋の調印を求めようということになりました。

 

1-6-2 「神葬祭」

寿平次の旨には木曽福島の役所から来た廻状のことが繰り返されています。それは和宮様の御通行に関係はないが、当時諸国にやかましくなった神葬祭の一条で、役所からその賛否の問合せでした。

「まあ、神葬祭なぞははたして今の時世に行われるものかどうかも疑問だ。どうも平田派のお仲間のすることは、何か矛盾がある」

文久元年の六月を迎えることで、さかんな排外熱は全国の人の心を煽り立てるばかりでした。その年の五月には水戸藩浪士らによって、江戸高輪東禅寺にある英吉利公使館の襲撃さえ行われたとの報知もあります。これほど攘夷の声も険しくなって来ています。

寿平次には伊那助郷の願書の件で、吉左衛門の調印を求める必要がありました。半蔵は寿平次をよろこび迎えます。

「寿平次さん、君は好いことをしてくれた。助郷のことは阿爺はもとより賛成です」

寿平次は吉右衛門とも話をした後、旅役人の詰め所の側を通った時、神葬祭の件で言い争われているのを聞きます。寿平次は半蔵から聞いて、神葬祭の一条が平田篤胤没後の諸門人から出た改革意見であることを知るのでした。

 

1-6-3 「和宮様御降嫁」

旧暦九月も末になって、馬籠峠へは小鳥の来るころになりました。最早和宮様お迎えの同勢が関東から京都の方へ向けて、毎日のようにこの街道を通ります。宮様お迎え御同勢の通行で、賑わしい街道の混雑は最早九日あまりも続いています。そうなると、神葬祭の一条も何もかも、この街道の空気の中に埋め去られたようになりました。和宮様御下向の噂があるのみでした。

このまれな御結婚には多くの反対者も生じました。それらの人たちによると、幕府に攘夷の意志があろうとは思われない。その意志がなくて蛮夷の防御を誓い、国内人心の一致を説くのは、人を欺きみずからをも欺くものだというのです。欺瞞の声は、どんな形になってどんなところに飛び出すかも知れませんでした。

十月の二十日は宮様が御東下の途に就かれるという日です。名古屋方面へ様子を見に行った吉左衛門は二十二日の明け方になって戻って来ました。語る途中の見聞だけでも、半蔵には多くの人の動きを想像するに十分でした。道路の改築もその翌日から始まりました。

やがて道中奉行が中津川泊りで、美濃の方面から下って来ます。翌日は中津川お泊の日取りです。その日は雨になって、夜中からひどく降り出しました。しかしその大雨の中でも、最早道固めの尾州の家中が続々馬籠へ繰り込んで来るようになります。

いよいよ馬籠御通行という日が来ました。本陣ではおまんが孫の側に眼をさますと、半蔵も吉左衛門も徹夜でいそがしがって、ほとんど家へは寄りついていません。九つ半時に、姫君を乗せたお輿は軍旅のごときいでたちの面々に前後を護られながら、雨中の街道を通りました。御行列が動いて行った時は、馬籠の宿場も暗くなるほどで、その日の夜に入るまで駅路に人の動きの絶えることもありませんでした。

御通行後の二日目、伊之助や半蔵はいろいろと後始末をしていました。その時、伊之助は声を潜めながら、木曽の下四宿から京都方の役人への祝儀として、先方の求めにより二百二十両の金を差し出したことを語ります。

「御通行のどさくさに紛れて、祝儀金を捲き揚げて行くとは---実に、言語に絶したやり方だ」

年が新たまり、正月早々から半蔵は父の名代として福島の役所へ呼ばれ、お下げ金百両の分配を受けています。その日半蔵はお下げ金のことで金兵衛の知恵を借りて、御通行の日から残った諸払いをしました。後始末も出来たころに、江戸の方の噂が坂下門の変事を伝えました。水戸人を中心とする決死の壮士六人、江戸城の外のお濠ばたの柳の樹のかげに隠れて、老中安藤対馬の登城を待ち受けて襲撃しました。安藤対馬は運強く、重傷を被りながらも坂下門内に駆け入って、わずかに難をまぬかれました。

幕府はすでに憚るべき人と、憚るべき実とがありません。井伊大老は倒れ、岩瀬肥後は喀血して死し、安藤老中までも傷つきました。四方の侮りが競うように起こって来て、思い思いに勝手な説を立てるものがあっても、幕府ではそれを制することも出来ないようになって来ました。港は鎖せ、欧羅巴人は打ち払え、その排外の風が到るところを吹きまくるばかりでした。 

 

 

この頃から攘夷の嵐が強く世間に吹き捲り、強暴化し始めたのでしょうか。大老の井伊直弼は殺害され、その後の老中安藤対馬も坂下門の変事として襲撃されます。水戸の攘夷活動が相当に激しかったようですね。

 

 


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