読書シリーズの第二弾になります。今回は島崎藤村の「夜明け前」を選びました。思えば、前回の「武田勝頼」は甲斐武田家の滅亡を書いた小説でしたが、今回は見方によれば江戸幕府徳川家の滅亡の話とも考えられます。それで、この小説を選んだという理由もありますが...この本の出版は昭和48年となっていました。全体的に日焼けして変色してはいますが、その度合いは若干の程度なので読むのに問題はありません。どうやら誰も一度も読んでいないようです。この本は出版されてから今までどのような変遷を辿って来たのか想像もできませんが、誰かに一度は読まれたほうがこの本にとっても幸せではないかとも思うのです。

今回は、とうとう半蔵たちが江戸に向かって出発します。

 

1-3-1 「出発」

安政の昔は旅も容易ではありません。木曽谷の西のはずれから江戸へ八十三里、この往復だけにも百六十六里の道は踏まねばなりません。その間、峠を四つ越して、関所を二つも通らねばなりません。かねて妻籠の本陣とも打合せの上、出発の日取りも旧暦の十月上旬に繰りあげてありました。

佐吉は雇われて来てからまだ年も浅く、半蔵といくつも違わないくらいの若さでしたが、今度江戸への供に選ばれたことをこの上もない悦びにして、留守中主人の家の炉で焚くだけの松薪なぞはすでに山から木小屋へ運んで来てありました。半蔵は青い河内木綿の合羽を着、脚絆をつけてすっかり道中姿になります。

隣宿妻籠の本陣には寿平次がこの二人を待っていました。その日は半蔵も妻籠泊りときめて、一夜をお民の生家に送って行くことにします。翌朝、佐吉は誰よりも一番早く起きて、半蔵や寿平次が眼をさましたころには、二足の草鞋をちゃんとそろえています。半蔵や寿平次は檜木笠を冠り、佐吉も荷物を担いでその後につきます。同行三人のものはいずれも軽い草鞋で踏み出しました。

 

1-3-2 「追分」

秋も過ぎ去りつつあります。色づいた霜葉は谷に満ちています。季節が季節なら、木曽川の水流を利用して山から伐り出した材木を流しているさかんな活動のさまがその街道から望まれます。その年は安政の大地震後初めての豊作と言われ、馬籠の峠の上のような土地ですら一部落で百五十俵からの増収がありました。

木曽福島の関所も次第に近づきます。

「いよいよお関所ですかい」

佐吉は改まった顔つきで、主人らの後から声をかけます。福島では、半蔵らは関所に近く住む植松菖助の家を訪ねました。

次に、鳥居峠はこの関所から宮の越、藪原二宿を越したところにあります。三人とも日暮れ前の途を急いで、やがてその峠を降りました。

追分の宿まで行くと、江戸の消息はすでにそこでいくらか分かりました。そこに住む追分の名主で、年寄役を兼ねた文太夫が半蔵や寿平次に取り出して見せた書面は、ある松代の藩士から借りて写し取っておいたというものでした。

「このたび、異国船渡り来り候につき、江戸表はことのほかなる儀にて、東海道筋よりの早注進矢のごとく、よって諸国御大名ところどころの御堅め仰せ付けられ候...」

実に、一息にかねて心にかかっていたことが半蔵の胸の中を通り過ぎました。これだけの消息も、木曽の山の中までは届かなかったものでした。

 

 

旅はまだまだ始まったばかりで、木曾街道の途中ですが、それでも写し取っていた書面から江戸の消息が分かり始めます。こういう経験を実際にしてしまうと、半蔵としては、山の中に居ても仕方がない、早く江戸に、という気持ちが益々強くなって行くのでした。

 

 



 

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