読書シリーズの第二弾になります。今回は島崎藤村の「夜明け前」を選びました。思えば、前回の「武田勝頼」は甲斐武田家の滅亡を書いた小説でしたが、今回は見方によれば江戸幕府徳川家の滅亡の話とも考えられます。それで、この小説を選んだという理由もありますが...この本の出版は昭和48年となっていました。全体的に日焼けして変色してはいますが、その度合いは若干の程度なので読むのに問題はありません。どうやら誰も一度も読んでいないようです。この本は出版されてから今までどのような変遷を辿って来たのか想像もできませんが、誰かに一度は読まれたほうがこの本にとっても幸せではないかとも思うのです。

今回は、十二代将軍徳川家慶の薨去と半蔵の婚礼です。

 

1-1-2 「十二代将軍徳川家慶の薨去」

七月二十六日には、江戸からの御隠使が十二代将軍徳川家慶の薨去を伝えました。

「また、黒船ですぞ」

問屋九太夫が吉左衛門をも金兵衛をも驚かしたのは、それからわずかに三日杉のことでした。

「長崎の方がまた大変な騒動だそうですよ」

と金兵衛は言ったが、にわかに長崎奉行の通行があるというだけで、先荷物を運んで来る人たちの話はまちまちです。

遠からず来る半蔵の結婚の日のことは、すでにしばしば吉左衛門夫婦の話に上るころでした。隣宿妻籠の本陣、青山寿平次の妹、お民という娘が半蔵の未来の妻に選ばれました。

「半蔵さま---お前さまも大きくならっせいたものだ」

半蔵のところへは、こんなことを言いに寄る出入りのおふき婆さんもあります。おふきは乳母として、幼い時分の半蔵の世話をした女です。

「半蔵さま、お前さまは何も知らっせまいが、俺はお前さまのお母さまをよく覚えている。あのお母さまが今まで達者でいて、今度のお嫁取りの話なぞを聞かっせいたら、どんなずら---」

半蔵も生みの母を想像する年ごろに達していました。

このおふき婆さんを見るたびに、多く思い出すのは少年の日のことです。半蔵は学問好きな少年としての自分を見つけましたが、山里にいて学問することも、この半蔵には容易でありませんでした。

幸い蜂谷香蔵という一人の学友を美濃の中津川の方に見いだします。ちょうど中津川には宮川寛斎がいます。寛斎は香蔵が姉の夫にあたり、二蔵は互いに競い合って寛斎の指導を受けました。半蔵はこの師に導かれて、国学に心を傾けるようになって行きます。二十三歳を迎えたころの彼は、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤などの諸先輩が遺して置いて行った大きな仕事を想像するような若者でした。

黒船は、実にこの半蔵の前にあらわれて来たのでした。

 

1-1-3 「婚礼」

その年、嘉永六年の十一月には、半蔵が早い結婚の話も妻籠の本陣宛てに結納の品を贈るほど運びます。そこへ、楷書の使いが福島の役所からの差紙を置いて行きます。その差紙には、海岸警衛のための物入りも莫大だとあり、諸国の御料所、在方村々まで上納金を差し出せとの江戸からの達しだということが書いてありました。かねて前触れのあった長崎行きの公儀衆も、やがて中津川泊りで江戸の方角から街道を進んで来るようになります。

吉日として選んだ十二月の一日が来ました。

「半蔵さん、誰かお前さんの呼びたい人がありますかい」

「お客にですか。宮川寛斎先生に中津川の香蔵さん、それに景蔵さんも呼んであげたい」

浅見景蔵は中津川本陣の相続者で、同じ町に住む香蔵を通して知るようになった半蔵の学友です。半蔵らと同じように国学に志すようになったのも、寛斎の感化でした。

山家にはめずらしい冬で、一度は八寸も街道に積った雪が大雨のために溶けて行きました。思いがけない尾張藩の徒士目附と作事方とが馬籠の宿に着きます。来る三月には尾張藩主が木曽路を経て江戸へ出府のことに決定したといいます。こういう場合に、なくてはならない人は金兵衛と問屋の九太夫とでした。

婚礼の祝いは四日も続いて、最終の日の客振舞いには出入りの百姓などまで招かれて来ました。半蔵の継母のおまんは、隣家の息子にお民を引き合わせて、串差しにした御幣餅をその膳に載せてすすめます。新夫婦の膳にも上がりました。吉左衛門夫婦はこの質素な、しかし心の籠った山家料理で半蔵はお民の前途を祝福するのでした。

 

 

昔の婚礼の豪華さは、古い映画などで目にしますが、半蔵とお民の婚礼も四日も続きました。その地域の庄屋の役目も担っており、多くの百姓の面倒や相談も受けていたからでしょうが、それだけ人と人、家と家のつながりを大事にしていた時代であって、またそれが当時の社会を基盤として支えていた証拠なんでしょうね。

 

 

 

 

 

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