現在、新田次郎さんの「武田勝頼」を読んでいます。読もうと思ったきっかけは、今年のNHK大河ドラマの「真田丸」です。こちらは真田昌幸をはじめとする真田一族が戦国時代の苦難を乗り越えて行く姿を描くドラマですが、それが武田家の滅亡から始まります。甲斐の武田家と言えば、武田信玄が一代で築いた戦国最強とも呼ばれる軍団で、にもかかわらず信玄が病死後は勝頼の代で呆気なく滅んでしまいました。信玄や風林火山の旗印などはよく知っていたのですが、勝頼のこととなると、考えてみるとあまり知りません。特になぜあれほどまでに易々と滅ぼされてしまったのか。調べてみると、新田さんが「武田信玄」に続いて「武田勝頼」も小説として書いていましたので、それでは読んでみようと思った次第です。

今回は、第三部「空」の「穴山梅雪、離叛の心を決めること」から「嗚呼高天神城」までです。

 


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「穴山梅雪、離叛の心を決めること」

高天神城主岡部丹波守真幸は再三にわたる援軍申請にも拘らず、勝頼から何の音沙汰もないので、鷺坂甚太夫に書状を持たせて古府中に送りました。勝頼は孤立無援となった高天神城将兵の討死の覚悟を聞いて、直ぐにでも援軍を送ろうとしました。しかし、鷺坂甚太夫は軍監の横田尹松からの書状も持っていました。その書状は、援軍には一万は必要だが、そうすれば織田・徳川軍は二万を動員して来るので、結局は設楽ケ原の合戦と同じような終末を迎えることになるから、ここは高天神城は棄てるしかない、という内容でした。

勝頼は重臣たちを呼び集め、高天神城からの二通の書状を見せて意見を問いました。織田・徳川連合軍との決戦を主張したのは真田昌幸だけでした。御親類衆は一人として昌幸の意見に賛同する者はいませんでしたが、勝頼は織田・徳川連合軍と決戦するのは今を置いてはないと考えており、昌幸の意見に同感でした。勝頼は昌幸に向かって、中三日で作戦計画を立てた上で再度軍議を開くように言いました。その日の夕刻、駿河から穴山梅雪(信君)が来たという先触れが勝頼のもとに届きました。

梅雪が勝頼を訪ねた日は、今にも雪が降り出しそうに重く灰色の雲が垂れ下がっていました。梅雪は挨拶の後、梅雪の息子の勝千代と勝頼の娘の於徳姫との婚儀を取り決めておきたいと話を切り出しました。双方まだ幼少ですが、武田家と穴山家を強く結びつけておくためにもちゃんと決めておいたほうがよいということでした。勝頼は於徳姫が生まれた時にそのようなことを言った覚えはありましたが、約束をしたとは思っていなかったため、実は於徳姫は武田信豊の次男、小次郎と結婚させるつもりだと答えました。

梅雪はそれ以上は言わず、その日は帰って翌日再び勝頼に会って縁談の話を持ち出しました。勝頼はああ言っても心では言い過ぎたと反省しているに違いないと思ったからでした。しかし勝頼は、いささかも気持ちは変わっていない、と言うのでした。

梅雪は、勝頼の言葉を武田家が穴山家に対する不信任を表明したものと聞きました。梅雪は怒りを丸飲み込みにした後、縁談を断られた場合のために用意していた築城案を話しました。これは武田家を守るための築城案ではなく、亡ぼすための築城の薦めでした。織田・徳川連合軍が直接甲斐の国へ攻め込んで来ることに備えて、まず城を作ることが大切で、真田昌幸に縄張りを命じ、用材は木曾義昌に命じて調達すれば一年もあれば立派な城ができるであろう、と言うのでした。

真田昌幸に縄張りを命じたらよいと言ったのは、昌幸を戦場に駆り立てず築城へ能力を集中させることが武田家を自滅に導く第一歩だと考えたからでした。木曾義昌に材木調達の夫役を命じたのは、必ず不平不満が出て勝頼との間が不仲になると見たからでした。梅雪はその日のうちに面だった御親類衆の間を説いて、築城案を固めました。多くは深く考えずにこれに賛成しました。

翌朝、軍議の席で真田昌幸と曾根内匠の二人は築城説に徹底的に反論しましたが、既にその機は失っていました。雪は止まずに降っており、大雪になりそうでした。館が雪の重みできしんで鳴りました。

 

「亥の刻出撃」

高天神城主岡部丹波守真幸は、代々駿河の豪族で、その勇将の下に高天神城に籠った八百余名の多くは駿河と信濃の出身者であり、甲斐の国の人は軍監、横田尹松ほか数えるほどでした。風雨の中、鷺坂甚太夫が勝頼からの書状と差し入れとして鰹節五十本を持って高天神城へ戻った時、城兵たちは喜び合いました。しかし、書状の内容は城兵たちが期待していたものとは相違し、今すぐ援軍を送ることは難しいというものでした。

真幸は主なる将を集めて書状を回覧し、城全体として結論を出すことにしました。鰹節は各隊の頭数割に比例して分配しました。そして、二月一杯待って援軍が来ない時は討って出ることに決まりました。

三月十一日から高天神城の食事はそれまで粥食一杯ずつ二食だったのが、粥食二杯ずつ三食になり、三月十四日からは朝、昼二食は粥の他米飯一杯ずつが与えられました。長い間の粥で、普通の飯を与えると胃痙攣を起こす者があるので、このような処置を取ったのでした。

三月二十日になりました。桜の花は既に散り、若葉が萌え出していました。二十日の朝からは食べたいだけ食べてよいということになりました。三月二十二日の夕食には勝頼から贈られた鰹節が分配されました。夕食が済むと同時に焼き米が配られ、携行食として各自が身に着けるように命令されました。そして、亥の刻(午後十時)を期して出撃する旨が伝えられました。

空は曇っているので鼻をつままれても分からないような闇の中で、高天神城将兵八百余名は勢揃いしました。合言葉は“生”と“死”、それは将から兵に伝えられ、いよいよ最後の時が来ました。時に天正九年三月二十二日亥の刻でした。

 

「嗚呼高天神城」

高天神城の将兵は二手に分かれて討って出ました。本丸から北に討って出た大将は、軍監江馬直盛でした。西の丸から城の北西部の林ノ谷に向かって討って出たのは城将岡部真幸でした。岡部真幸の率いる四百五十名の将士は一丸となって大久保忠世の陣を衝きました。思いがけない夜襲に大久保軍は防ぎ切れずに退きましたが、そこに大須賀隊が応援に来てじりじりと城兵を城内へ押し戻し、この戦いで大久保隊が討ち取った敵の首の数が全軍で最多となりました。これは大須賀康高が、決戦の前に城内から立ち昇る炊飯の煙を観察して夜襲があることを予測し、夜襲に備えた訓練を前もってしていたからでした。

西の丸方面には、軍監横田尹松が率いるもう一つの小隊がいました。 犬戻り猿戻りの稜線を尾根伝いに脱出を試みた横田尹松ら五十名は、苦労をして森林をくぐり抜け、東大谷から高天神城の北、今滝に通ずる道に出ましたが、既に敵兵によって封じられていました。ここまで来る間に四十人に減っていました。

横田尹松と鷺坂甚太夫の二人だけがようやく敵中を突破して、青崩峠を越え、信濃の伊奈に入り、集合場所の平岡に辿り着きました。城を出た五十名のうち、ここまで来たのは僅かに十一名でした。

高天神城の城兵は八百四十余名のうち、六十名近くは無事城を抜け出て、生命を捨てずに済みました。徳川方の死者の記録は五百名近くあったと想像されます。徳川勢は意外に強い反撃に会ったのでした。

高天神城は流血の中に亡び、そしてこの戦いを境として廃城となり、再び城としての能力を発揮することはありませんでした。

 

 

穴山信君はとうとう謀反の決心をし、そして高天神城は落ちてしまいました。駿河の領地は信玄の代で武田領となり、勝頼が継いで、残っていた難攻不落の高天神城をも武田方の城として占領することまでして、一時は駿河をほぼ手中にしていたのですが、設楽ケ原の合戦後は、徳川勢に次々と城を取り返されてしまいました。それに穴山信君...有能でも武田軍の組織としての所作ができないのであれば、反対に弊害となるばかりです。




 

 


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