現在、新田次郎さんの「武田勝頼」を読んでいます。読もうと思ったきっかけは、今年のNHK大河ドラマの「真田丸」です。こちらは真田昌幸をはじめとする真田一族が戦国時代の苦難を乗り越えて行く姿を描くドラマですが、それが武田家の滅亡から始まります。甲斐の武田家と言えば、武田信玄が一代で築いた戦国最強とも呼ばれる軍団で、にもかかわらず信玄が病死後は勝頼の代で呆気なく滅んでしまいました。信玄や風林火山の旗印などはよく知っていたのですが、勝頼のこととなると、考えてみるとあまり知りません。特になぜあれほどまでに易々と滅ぼされてしまったのか。調べてみると、新田さんが「武田信玄」に続いて「武田勝頼」も小説として書いていましたので、それでは読んでみようと思った次第です。

今回は、第二部「水」の「御館の乱」から「景虎の最後」までです。


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「御館の乱」

天正五年、上杉謙信は織田軍を能登、加賀から追い出して得意絶頂の時でした。謙信は大軍を率いて西上し、信長を制圧して天下人になろうと考えます。そして、西上に先立って関東に出征し、北条氏に対して関東管領の武威を示そうとしました。しかし、武田信玄が西上の途上において生命が尽きたと同じように、上杉謙信もいよいよ天下を取ろうと決心したその時点で倒れてしまいます。

謙信は一生結婚しませんでしたから子供はなく、養子がいました。一人目は北条氏政の弟の氏秀で、謙信の旧の名前の景虎を貰っていました。二人目は謙信の従兄の次男である景勝です。景勝派は謙信の死は時間の問題と見て取って先制攻撃を掛けて景虎一派を締め出しました。謙信の死と同時に越後は二つに分かれて相続戦争が始まりました。

北条氏政は景虎援助を決めます、謙信の跡目が景虎になれば、長く続いていた北条と上杉の争いがなくなります。武田勝頼もまた、景虎に援軍を送ることにやぶさかではありませんでした。勝頼の正室佐代姫は景虎の妹にあたるため、北信濃争奪の問題が解決するだろうと思っていました。

景勝は景虎を春日山城から追い出したものの、景虎の下に集まる者が予想外に多く、困っていました。景勝は謙信が残した財産を有効活用しようと考え、武田勝頼を思い浮かべました。武田家は金山を掘り尽くして困っているという噂があったからです。

北条氏政は急使を立てて、勝頼に越後出兵を促します。しかし勝頼は、氏政のやり方に長い間不信感を持っていました。氏政は自らの手を汚さずに武田氏の手を借りて上杉を牽制しようとしていたからです。ここで真田昌幸は、作戦上から考えると北条氏との連合作戦など行わず、独自に兵を進めた方がよく、春日山城占領も不可能ではないと進言します。

小田原に忍ばせてある諸国御使者衆からの情報が勝頼のところに入りました。景勝援助のために差し向けられた軍勢に、北条氏政自身は出征していませんでした。つまり氏政は越後で起こった御館の乱に積極的ではなかったのです。勝頼は氏政に心が許せないと言いつつ、出陣します。この出陣は御親類衆にも家臣にも反対されず、勝頼の意志で出陣した初めてのものでした。

勝頼は川中島の海津城で軍議を開き、飯山城の守兵五百は景勝側についたという報せを受けます。勝頼は軍勢を二分して飯山城へ向かいますが、飯山城を守る将兵はたまたま景勝に味方をしただけであったため、城を捨てて逃げ出しました。

勝頼は戦いらしい戦いをせずして飯山城を落とし、春日山城の僅か四里のところにある小出雲で、武田軍五千は陣を張りました。景虎からの使者が書状を持って来て、一気に春日山城に攻め進んで、共に景勝の軍を挟み撃ちにしよう、と言って来ます。勝頼は、小田原の北条と同陣する約束があるのでもう暫く待ってからにしたい、と言ってやりました。その頃、北条氏政は出陣しておらず、武蔵の部将をもって編成した遠征軍はようやく腰を上げたところでした。

 

「黄金二万両」

小出雲に陣を張っていた武田軍に、加賀勝の家臣島津月下斎からの書状が届きました。越後のことは越後の者に任せて撤兵してほしい、そうすれば奥信濃と東上野を譲る、という内容でした。真田昌幸は、武田軍は自らの武力で越後を制圧すべきであると言い、全軍に合戦の準備を命じました。景勝は自ら前線に立ち、応戦する態勢を整えます。勝頼は景虎に、背後から景勝を攻めるように言いますが、景虎はさっぱり動こうとはしません。景虎軍の将の中には、景勝と勝頼の戦を見ていたほうがいい、という者が多かったのでした。そして、景勝からは再び月下斎が和睦を進めにやって来ます。昌幸は、このままだと景勝は必ず景虎を負かしてしまうので、武田側に最も条件のよい今、交渉を行い約を結ぶべきだと進言します。

小田原から諸国御使者衆の内田幸右衛門が到着し、北条氏政が秘密会議で、武田家との同盟は破棄して、織田、徳川と結ぼう、越後の景虎に肩入れすることはやがて北陸に進出する織田軍との衝突を招くことになり兼ねないから景虎の支援はほどほどにしよう、という方針を決めたことを伝えます。

真田昌幸は、武田家の逼迫した財政状態を鑑み、景勝と手を組むことを提案します。奥信濃と東上野の地を武田に譲渡することを条件に武田軍は即時撤兵することで和睦する、そして、勝頼の妹於菊が景勝の正室として嫁し、その結納金として二万両を勝頼に贈るということが取り決められました。景勝は昌幸の出した条件を全面的に呑みました。勝頼は二万両を持って古府中に凱旋したのでした。

 

「景虎の最後」

勝頼が景勝と講和したという噂は越後中に知れ渡りました。北条氏政が派遣した援軍はさっさと小田原に帰って行きました。

北条氏政と武田勝頼が越後から手を引いた時点で景虎と景勝の戦力を比較すると、景勝の方が断然有利でした。景勝は謙信の血筋を引く者であり、一方、景虎は敵として戦った北条の血を引く人であり、よって越後の人たちが景勝を謙信の跡目に願うのは当然でした。

景虎は、勝頼が景勝と和睦したのはやむを得ないことであったとしても、実兄の北条氏政が兵を引上げ、さっぱり援助しないのを恨みました。景虎側は持久戦に引き摺り込もうとしますが、北条(きたじょう)景広や本庄義秀の主だった将が倒れ、景勝側からの和睦を受入れます。

景勝側は和睦交渉に先立って、人質として景虎の嫡子道万丸とその母まつの命を保証すると言いますが、約束は破られ殺されます。そして景虎も切腹して果てたのでした。

 

 

景勝は勝頼と結んだことによって運が開けました。越後を統一し、織田信長の侵略に耐えました、豊臣秀吉の代になると、北条氏を倒し、会津百十万石の太守となり、関ケ原の戦いの後は米沢三十万石の藩主となりました。景勝を助けた勝頼が滅び、助けられた景勝が上杉家を残したのは皮肉な運命の取り合わせでした。

 



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