現在、新田次郎さんの「武田勝頼」を読んでいます。読もうと思ったきっかけは、今年のNHK大河ドラマの「真田丸」です。こちらは真田昌幸をはじめとする真田一族が戦国時代の苦難を乗り越えて行く姿を描くドラマですが、それが武田家の滅亡から始まります。甲斐の武田家と言えば、武田信玄が一代で築いた戦国最強とも呼ばれる軍団で、にもかかわらず信玄が病死後は勝頼の代で呆気なく滅んでしまいました。信玄や風林火山の旗印などはよく知っていたのですが、勝頼のこととなると、考えてみるとあまり知りません。特になぜあれほどまでに易々と滅ぼされてしまったのか。調べてみると、新田さんが「武田信玄」に続いて「武田勝頼」も小説として書いていましたので、それでは読んでみようと思った次第です。

今回は、第二部「水」の「木曾馬献上」から「岩村城信長の背信」までです。

 



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「木曾馬献上」

岩村城は東美濃の山中にある城です。武田軍が三河への進出に足がかりとなる城で、悪山信友が守っていました。信友は設楽ケ原での武田軍大敗北を聞くと、直ちに籠城の準備を始めます。信長は時を移すと利あらずとして、織田信忠を総大将とする三千の軍を岩村城へ送りました。

信忠の軍は六月に入るとすぐ岩村城の包囲に掛かりました。岩村城は力押しで落とせる城ではなく、水晶山を背負っているこの要害を力攻めで落とそうとするならば、その犠牲は計り知れないものがありました。

設楽ケ原の敗北後、岩村城へ援軍を出せるのは無傷の木曾軍を除いては有りませんでした。木曽義昌は岩村城救援のために出兵せよという勝頼の厳命を受けましたが、直ぐに出兵しようとはしませんでした。木曾軍の動く気配がないと聞いた信忠は、水晶山への登山路を作り、そこから攻撃しようと計画します。もう少しで頂上に到着するというところで、岩村城からの兵が現れました。織田軍は散々な目に会って引きました。

織田信忠は、信長に岩村城攻略の失敗を報告しました。信長は、再度水晶山への道を作り、そこから逆落としに攻めるよう強く命令します。秋山信友の善政によって、付近の農民は武田勢に好感を持っていましたので、集められた人夫は本気で働こうとしませんでした。水晶山への登山路は遅々として進みませんでした。

勝頼は木曾義昌に援軍を送るよう再度命令しました。しかし義昌は、木曾口に控えている織田軍の動きが気になって、援軍を送ることも、乱破部隊で攪乱することもしませんでした。この時から、勝頼は義昌に対して悪感情を抱き始めます。

木曾義昌の家老山村良利は、義昌と勝頼とが不和になるのを恐れ、十月に入って、すぐ木曾の名馬五頭と姪のたみを連れて古府中へ向かいました。たみは希に見る美人であり、良利は自信を持って、たみを勝頼の側女として置いてくれるようにと差し出します。

勝頼は木曾からの贈り物は快く受け取りましたが、良利が申し立てる岩村城への援軍拒否はそう簡単には納得しませんでした。良利は、人の数、兵器、馬の数などを次々示して木曾軍単独の救援は困難であることを弁明します。

勝頼は、木曾から乱破部隊二百五十を出して、岩村城包囲軍の後方攪乱を策すという条件で、木曾軍出兵を取り止めました。また、良利の姪のたみは、長坂長閑斎の側室にやることにした、と言います。良利は酷い侮辱を感じました。可愛い姪まで差し出して機嫌を取ろうとした自分の心を踏みにじった勝頼を憎悪します。良利からの報告を聞いて木曾義昌は、岩村城出兵が見合わせになったというだけでよいではないか、と良利を慰撫しました。

山村良利が木曾に帰って間もなく、岩村城からも二俣城からも援軍の催促が届きます。勝頼は焦り、諸将を集めて軍議を開きますが、誰も援軍を出そうと言い出しません。設楽ケ原の大敗北の悪夢に将兵は未だに悩まされ続け、立ち上がる自信がなかったのです。そこに一人、真田昌幸がはっきりと意見を言います。昌幸は、岩村城、二俣城は、双方で人質を交換して敵に明け渡してやっていいのではないか、と進言します。二城ともかつてはそうやって味方のものになったのであり、返してやってもそのうち、また頂いてしまえばよいとう考えでした。

 

「諏訪原城明けわたし」

古府中の勝頼のところには、美濃の岩村城、遠江の二俣城の他に、同じく遠江南部の小山城からも救援の要請がありました。小山城には諏訪原城から逃れて来た将兵たちが籠って徳川勢を戦っていました。小山城が落ちると、その近くの高天神城も危うくなります。

諏訪原城は静岡県島田市菊川にその城址が残っています。遠江を制圧するために、この地に城が必要だとして築城を勝頼に進言したのは馬場信春でした。諏訪原城主今福浄閑は、設楽ケ原で武田軍が大敗北したという報告を聞いて、城を死守する覚悟を決めますが、設楽ケ原敗戦の事実は部下たちには知らせませんでした。

徳川軍はおよそ三千、大将は松平康親、牧野康成、鳥居彦右衛門でした。城兵はおよそ千人でしたが、厳重な防備の布石が施してあって、簡単に落とせる城ではありませんでした。鳥居彦左衛門は、築城に携わった猪土井正兼から諏訪原城の弱点を聞き出し、そこから城内に侵入しようとしますが、土居に拠っている武田の兵の槍に突かれて重傷を負ってしまいます。

攻城を開始して1ヵ月が経ちましたが、いつ落ちるか分からない状況でした。城内の兵は、設楽ケ原の敗戦の様子を知らず、必勝を信じているようでした。徳川方は、設楽ケ原の合戦で武田が大敗北を喫した一部始終を書いたものを風の強い日に城内へ向かって撒布することで、城兵の戦意を失わせようとしました。

武田方は交渉役として、副将の小泉忠季を任命しました。城を守る副将自らが交渉に出て来たことに気をよくした松平康親と牧野康成は余人を交えずに対談しました。城兵の命を保障する方法について議論になり、武田方は双方が人質を出し合うことを強調しましたが、徳川方は受け入れず、城の囲みを解いて一里後退することを提案します。後退の途中で引き返して背後から襲うようなことはしないと誓います。小泉忠季は松平康親と牧野康成の言葉を信じました。

諏訪原城の明け渡しが始まりました。武田軍は諏訪原城を後にして一斉に小山城へ退去しました。小山城から出迎えの兵が現れたのを見てほっと胸を撫で下ろしましたが、小山城でもまた同じようなことが行われるのではないかと思うと、武田に従っている我が身の将来が不安でならなかったのでした。

 

「岩村城信長の背信」

天正三年、織田信長は五百人ほどの兵を率いて上洛しました。京都に着くと、連日のように茶の会を催します。諸国の大名は、信長、京都にありと聞いて、競って進物を届けました。信長は四囲に威光を示すばかりでなく、天皇への拝謁も成し得ます。信長は得意の絶頂にいました。遊び女を招いての酒宴が催され、信長にわざわざそのような女を連れてくる者もいました。

その中に、姉小路中納言が信長の歓心を引くために連れて来たお香という女がいました。信長は殊の外お香を愛します。ある夜、突然お香が馬の蹄おの音が聞こえると怯え、家来が武田軍の情報を信長に知らせに来ました。勝頼が岩村城救援のために出発したのでした。信長はお香を残して岐阜城へ戻りますが、その後のお香の行方はとうとう分かりませんでした。

勝頼は援軍三千を率いて古府中を発しますが、設楽ケ原の戦いの影響で寄せ集めの百将兵が多く、怯える者や脱走する者が出ました。これでは進軍しても信長の軍とまともな戦が出来ないと考え、勝頼は高遠まで出て来ながら途中で引き返してしまいます。

城主秋山信友と正室ゆう女らは、降伏を決意します。ゆうは信長の叔母でした。攻城軍の大将、織田信忠と城下で対面した後、信忠の好意で、信長に挨拶するために岐阜城へ向かうことになります。信長はゆうを見て、そこに京都で別れたままのお香の姿を見ます。ゆうはお香と余りにもよく似ていたのでした。信長は心の中にお香を失った悲しみが湧き上がり、たちまち憎悪となって膨れ上がりました。信長は秋山信友らに死刑を宣告すると同時に、岩村城の城兵を皆殺しにするように命令します。

城内の兵は転封させることに決まったから城を出るように、と織田信忠は通告しました。城主が帰らぬうちに城を出ろというのはおかしいと感じ、遠山市之丞が城兵を代表して織田信忠まで申し出ましたが、信長の命令は絶対であり、夜が明けると同時に信忠軍が一斉に攻めて来ました。

信長はこの攻城戦の結末を血で染めました。一人残らず殺せという命令は忠実に実行されたのでした。

 

 

諏訪原城も岩村城も織田・徳川軍に獲られてしまいます。武田軍は設楽ケ原の敗戦の影響がまだ尾を引いており、思いどおりに軍勢を動かすことができません。信長は上洛して増々勢いをつけて来ます。勝頼の苦悩に呻く声が聞えて来るかのようです。

 



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