現在、新田次郎さんの「武田勝頼」を読んでいます。読もうと思ったきっかけは、今年のNHK大河ドラマの「真田丸」です。こちらは真田昌幸をはじめとする真田一族が戦国時代の苦難を乗り越えて行く姿を描くドラマですが、それが武田家の滅亡から始まります。甲斐の武田家と言えば、武田信玄が一代で築いた戦国最強とも呼ばれる軍団で、にもかかわらず信玄が病死後は勝頼の代で呆気なく滅んでしまいました。信玄や風林火山の旗印などはよく知っていたのですが、勝頼のこととなると、考えてみるとあまり知りません。特になぜあれほどまでに易々と滅ぼされてしまったのか。調べてみると、新田さんが「武田信玄」に続いて「武田勝頼」も小説として書いていましたので、それでは読んでみようと思った次第です。

今回は、第二部「水」の「旗幟ひらめく設楽ケ原」から「山県昌景の死」までです。

 


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「旗幟ひらめく設楽ケ原」

既に雨は上がっていました。連合軍にとっては鉄砲を最大限に使用できる状態となり、柵と鉄砲を使って武田軍の出血を強いる作戦でした。真田昌幸は、徒らに出撃を繰り返すのは愚策であって、今退けば損害は少なく、敵が追って柵から出てくれば反撃すればよい、と進言します。しかし、この合戦の状態で退く命令を出すことはかえって混乱を招くため、勝頼は攻撃を続けます。

織田信長は左翼陣の佐久間隊と右翼陣の徳川隊に積極的な攻めを命令し、武田軍を合戦のるつぼの中に引きずり込もうとしていました。柵を挟んで全面的な戦いになれば消耗戦となって、人員に不自由しないわが軍が優勢になるだろうと考えていました。

武田勝頼は、敵の作戦の裏を掻き、味方の予備隊を左右両翼に繰り出して、敵の左右の柵を一気に突き破り、敵本陣を衝こうと考えます。曾根内匠も賛成し、真田昌幸は、右翼の馬場隊には穴山隊を全軍投入し、左翼の山県隊には中央の武田信豊隊の予備隊と旗本隊を投入すれば、両翼の柵は破れるでしょうと言いました。

昌幸は穴山信君のところに行って勝頼の命令を伝えます。しかし、そのうち連合軍の佐久間隊は必ず退き、翻って信長の本陣に突っ込むであろうから、総攻撃にかかるのはその時であって、今は動かぬ、と命令を聞きません。昌幸は、武田が興るか亡びるかの合戦です、総大将の勝頼様の命令に従わないのは違反行為です、と説得します。しかし信君は、何だと真田の小童め、成り上がり者めが自惚れにもほどがある、もう一度行って見ろ、手打ちにしてやる、と怒鳴り、信君の濁った顔からは湯気でも立っているように見えました。

昌幸はもはや言うべきことはありませんでした。武田は負けると、この瞬間はっきりと感じたのでした。

 

「山県昌景の死」

馬場信春は丸山を死守するような下手な戦はしませんでした。丸山を餌にして佐久間隊を誘い込み、手痛い損害を与えました。しかし佐久間隊は大軍のため、馬場隊の策を承知で繰り返し反撃して来ます。こうなると、作戦を変えなければなりません。

馬場隊は敵の最左翼陣の水野隊を攻撃しました。水野隊と佐久間隊の連携は上手く行っていなかったので、その弱点を突いて、水野軍に大打撃を与えてそれを追いかけながら佐久間隊の本陣を狙おうとしたのです。午前中と同じように水野隊はじりじりと下がり、三の柵まで後退しました。今こそ絶好の機会とばかり、馬場信春は次々と使番衆を送って穴山信君に攻撃を促しましたが、穴山隊はいっこうに動く気配はありません。そのうち、三の柵に水野隊に替わって丹羽長秀の予備隊が現れ、横槍を入れて来たため、馬場隊は退かざるを得ませんでした。

土屋昌続は丹羽長秀隊と戦っていました。丹羽隊の予備隊が水野信元隊援助に移動したのを見て、機会到来と見て一斉に攻撃に出ました。全線戦にわたって死闘が始まりました。信長は、このまま時間が経過すれば武田軍は損害が多くなり、必ず敗北すると考えていましたので、これでよし、と言葉を発しました。勝頼は、これはまずい、と呟きました。少ない味方で勝つには力を結集して敵の弱点を突かなければなりませんが、その戦機は穴山隊が動かないために失ったのでした。

丹羽隊が退いて、柵の向こうに敵の槍足軽隊が逃げ込むのを土屋昌続は追いましたが、深追いしてしまい、気が付いた時には槍に替わって鉄砲隊が現れており、一斉射撃を受けて倒れました。

土屋昌続が戦死した時、武田隊の左翼、山県昌景も敵の大軍を相手に苦戦の最中でした。山県隊が攻め掛けると柵内に逃げ込み、山県隊が引けばその後を追って来るというやり方でした。昌景は、予備軍が来たところで、力を合わせて一挙に柵を打ち壊して敵陣深く斬り込もうと思っていましたが、穴山隊が動かなかったため、その機は来ませんでした。昌景は敵をあしらいながら引いて行きました。それに倣って中央の各隊も引きました。全線戦にわたって妙な静けさが広がって行きました。

信長は武田隊が一休みしたのを見て、床几から立ち上がって采配を高く掲げながら、鉄砲隊を先に立てて楚攻撃に入れ、と命令を発しました。連合軍は柵から出て来て、鉄砲隊は射程距離に入ると片膝ついて一斉に鉄砲を放ち、武田軍がひるんだところへ足軽隊が攻め寄せて来ます。

血みどろの戦いが繰り返されました。両軍とも多くの死傷者が出ました。山家三方衆の菅沼勝兵衛、菅沼秀則、小野田八郎などの足軽大将が逃げ始めました。これらは合戦の前から徳川方に通じていました。田峯衆の指揮は、田峯城主に菅沼刑部少輔定忠が取っており、退くな、戦えと城所道寿らと怒鳴りましたが、止めることはできませんでした。田峯衆の退いた後へ滝川一益隊が楔のように突っ込んで来たため、武田信豊隊も退かざるを得ませんでした。中央の御親類衆の隊が退き始めたことによって、武田軍の総敗北は見えて来ました。

全線戦にわたって武田軍が後退を始めたと見ると、連合軍は勝ち戦とばかりに攻め込みました。勝頼は、穴山隊に予備隊全部を繰り出して敵を防げと命じましたが、穴山信君は既に退き始めていました。

連合軍の大軍が塊のようになって押し出して来て、穴山隊が引いた隙間に入り込もうとしました。真田隊は踏み止まって戦いましたが、防いでも防いでも新手の敵が現れました。真田信綱は使番衆の井出八郎に、本陣の昌幸へ、勝頼様をお守りしてこの地を逃れよと伝言させます。井出八郎は昌幸に伝えた後、再び戦場に馳せ帰りましたが、真田兄弟は討ち取られた後でした。

山県昌景は馬上におり、攻め込んでくる徳川軍の鼻先をもぎ取る指揮ぶりは見事でした。連合軍の鉄砲奉行、前田利家は優れた鉄砲隊百人を率いて戦場にいました。混戦状態にあると鉄砲は自由に使えないので、狙撃部隊となって武田の大将を狙っていました。その鉄砲隊に昌景は一斉射撃を浴びせられ、落馬します。

昌景が討死したとの報告を聞いた時、勝頼は一瞬よろめきました。左右の侍臣たちがそんな勝頼を無理矢理馬に乗せます。その時、血だらけになった使番衆がやって来て、馬場晴信が殿を果たすとの知らせが入りました。勝頼は、昌景も死んだ、さらに信春が死んだら武田はどうなる、決して死んではならぬと伝えよ、と叫びます。

とうとう才ノ神の本陣に立てられていた武田の旗が動き出しました。総大将の勝頼が敵に背を向けた時、設楽ケ原の合戦は武田の敗北と決まったのでした。

 

「敗走」

連合軍は武田軍に対して三倍以上の圧倒的兵力を有していましたが、武田軍の強さをかねてから聞いているので、恐怖に包まれながら、柵に寄って来襲して来るのを待っていました。

武田軍は全線戦に渡って進撃を開始しました。しかし、これは全軍が火の玉となって攻め込んだというものではなく、それぞれの部隊から第一番隊が繰り出して、連合軍の柵に迫ったのでした。

信長は、まず馬を狙えと命令します。なるべく多くの馬に鉄砲を撃ち掛けて狂奔させ、緒戦において武田軍を混乱に陥れようという策略でした。武田軍の戦闘に混乱が起きました。指揮者の乗った馬が狂奔したことによって指揮する者が居なくなり、前身できる状態ではありませんでした。武田軍は堂々と引いて連合軍の射程距離外に出ました。

連合軍の鉄砲隊は手強いぞと知り、武田軍は二番手の攻撃法を変更します。武田軍は戦争に馴れていたので、無茶苦茶な自殺的突撃はしませんでした。盾と竹束に隠れて接近し、一気に突っ込む方法を取りました。

武田軍の右翼隊の総大将は馬場信春で、連合軍の左翼陣水野信元、佐久間信盛の両隊のうち、水野隊に攻撃を開始しました。佐久間信盛は武田軍に内通しているはずでした。水野信元、佐久間信盛の両隊を左翼に置いたのは信長の計略で、いったん下がらせて、陣内深く突入したところで反撃に出て、武田軍の息の根を止めてやろうというのでした。

丸山は設楽ケ原の最北部にある小高い丸い形をした丘でした。佐久間信盛はここで四千の兵を指揮していました。佐久間隊は徐々に退いて行きましたが、途中で留まり、馬場隊が攻めかかると佐久間隊もまた人の壁を厚くして防ぎ始めました。信実はこれを見て、信盛は武田方に内通しているはずなのに変だと思いましたが、すぐに、やはり信盛の裏切りは計略だったと直感します。信春は、こうなれば佐久間信盛の首を真っ先に挙げようと、攻め太鼓を打ち鳴らし、馬場隊は丸山一帯に向かって攻めかかって行きました。鉄砲の戦いではなく、槍や刀の合戦でした。

丸山の頂きに馬場隊の旗が立った時、佐久間隊は算を乱して退いていました。時間は巳の刻(午前十時)、久方ぶりで顔を出した太陽が台地を照らし、設楽ケ原からは濛々と湯気が立ち昇っていました。

 

 

設楽ケ原の合戦について記述したものは多くありますが、ほとんどは江戸時代に入ってから書かれたもので、その史実性には乏しいそうです。原典を大別すると「原本信長記」と「甲陽軍鑑」の二つになりますが、「原本信長記」は良質なれども記述が短く、また「甲陽軍鑑」は間違いだらけで全面的には信用できません。この新田さんの小説は、高柳光寿氏の「長篠之戦」を下敷きにして書かれているとのことです。

 


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