伊藤みどりと山田満知子 | フィギュアスケート研究本

フィギュアスケート研究本

フィギュアスケートの未来を考える同志が集う場所です

日本のメダリストのコーチたち~山田満知子〈1〉

 この対談の大トリを務めるのは、スケート王国・名古屋が誇る名コーチだ。日本人初の五輪メダリストの伊藤みどりに始まり、恩田美栄、中野友加里、浅田真央…、そして現在の村上佳菜子へ。名古屋・大須のリンクから飛び出したスターたちを、肝っ玉コーチはどう育てていったのだろうか?

 城田「山田先生は意外にも、選手として滑っていた時間が短かったのよね。高校生でもう、アマチュアを辞めちゃったんでしょう? そして大学生時代に、コーチを始めたんだったかしら?」

 山田氏「そう、本当は東京の大学に行く話もあったんだけれど、『娘一人、東京に出してもろくな人間にならない』って、母親が(笑)。やっぱりあの時代、女の子は手元に置いておきたかったのね。でもその頃の名古屋のスケートの人たちは、みんな東京に出てっちゃったのよ。古橋ひとみちゃんに、朽木君、藤森美恵子さん、それからちょっと後に、坊や(小塚嗣彦氏)」

 城田「そうやって挙げてみると、ずいぶん名古屋の人が多い。すでにその時代から、名古屋はスケートが盛んな土地だったのね」

 山田氏「でも若い子たちはみんな東京に行っちゃった。私だけが名古屋に残ってて。それで結局、選手を辞めてからも愛知県連盟の手伝いをしてくれないか? ってことになったんです。バッジテストや合宿で、曲かけをしたりのお手伝いね。でも私は、スケートがあまり好きじゃなかった。城田さんはどうだったか知らないけれど(笑)」

 城田「私も好きじゃなかった(笑)。でも山田先生は、お父様がスケートに熱心だったでしょ?」

 山田氏「そう。でも私は本当にスケートが好きじゃなかったの。ただ、今まで選手としてお世話になってきたんだから、ってお手伝いを始めたんです。そうしてるうちに、やっぱり熱心なお母さんたちがいてね。私はまだ若かったから、おばちゃんの先生よりいいだろうって、『ちょっとだけうちの娘を見てくれませんか?』なんてことになってしまうの。コーチなんてやるつもりはなかったけれど、それでもバイト感覚で、全日本なんかにも付いていくようになっちゃった。もう、結婚したら辞めようと思ってたのよ。だけどやっぱり名古屋にコーチが足りなくて、さらに教えていた子たちが…」

 城田「伸びてきちゃったのね!」

 山田氏「そう、だからお母さんたちが辞めさせてくれないの。子どもを産んだ時に一度は辞めたのに、『先生、ちょっとだけ、ちょっとだけ』って言われて、結局また始めて。そのうちに出てきたのが、みどり(笑)」

 城田「みどりちゃん! そうなるともう、辞められなくなっちゃう(笑)」

 山田氏「本当にそうなの。今の佳菜ちゃんたち若い子にとっては、先生としてプロになるって夢だったりするでしょう? でも、私は違った。私なんて、コーチになるつもりでなったわけでも、夢だったわけでもない。今思えば、みどりが出てきたりして、運が良かったのね」

 城田氏「そのみどりちゃんを見つけたのは、どういういきさつ?」

 山田氏「あの人は普通に、大須のリンクの近くに住んでたんじゃないかな? それで日曜日になると、家族と一緒に滑りに来てた。子どもなんて、みんな上手に滑るものよね。それでほとんどの親が、錯覚するの。『うちの子、素質あるんじゃないか?』って。みどりも同じで、子どもがせがむからって、日曜だけじゃなく平日も毎日毎日来るようになった。リンクに置いておけば、1日勝手に遊んでるしね(笑)」

 城田「そのうちに、スケート教室に入るようになったの?」

 山田氏「最初のうちは、大須のリンクの中日スケート教室。今では考えられないけれど、最初はホッケーの人たちに習ってたの。フィギュアの教室というより、ただ滑ることを習う教室。私も自分の生徒を教えながらみどりが滑ってるのを見てたんだけれど、うちの生徒よりみどりの方が上手なんですよ。そうしてるうちに、タダレッスン(笑)。みどりも貪欲な子だったから、どんどん習いたがってね、結局はタダで教えちゃってた」

 城田「確かにみどりちゃん、小さいころからみんなとは違ってた」

 山田氏「そう、賢かったのね。勉強はだめだったけれど、やっぱり勘がいい。学校の勉強はできても、ボーっとしてる子はだめなんですよ。『今、先生は私に何を求めてるのか』『今の自分には、何が必要なのか』キャッチする力がすごく必要なんです。スケートじゃなくても、何をするにもそうじゃないかな? みどりも頭の良い、勘の良い子だった。綺麗でセンスがいいとか、上品というのではなかったけれどね。でも、判断能力があって、先生の言うことをばっちり理解できる」

 城田「みどりちゃん、その頃から目立っていたらしい。東京の私の所に才能がありそうな、ちっちゃな子がいるから名古屋へ来てくれって…。とにかくスピンは早いし軸がありジャンプが高く、本能で跳んでる感じがするらしいから『見て!見て!』と催促が再三。私は、その頃ただの強化委員。自分の子供も小さいから、名古屋まで行けないわよ。じゃぁ、品川のリンクのエキシビションに呼ぼうか? が始まりだった」

 山田氏「でも、あの頃、東京に憧れて出ていった人たちにしてみれば、名古屋でくすぶってるはずの私が、みどりで目立ち始めて、あんまりおもしろくなかったみたい『あの子に何が出来るの?』って言われてたものね」

 城田「そこにさらに城田が張り付いてたから、余計に『山田先生って何なの?』って言われたのよね(笑)」

 山田氏「でも仕方ないのよ。例えば(佐藤)信夫先生なんかは、日本のチャンピオンでエリート中のエリート。コーチになってからも西武に入られて、出世コースじゃないですか。それに比べれば、私なんかもう、本当に田舎者(笑)。だから『まっちゃんなんかに、何が教えられるんだ!』みたいに、本当によく叩かれたたものよ(笑)。だけどそんなことがあったから、たぶん私は頑張れた。あの時に甘やかされてたら、ちょっと今のようにはいかなかったかもしれないわね」

 城田「みどりちゃんが出てきて凄い選手がいるって、みんなに騒がれて。そこから本格的にコーチの人生が始まった」

 山田氏「そう、だからみどりが出てきて楽しくなったんじゃなくて、とっても苦しくなりました(笑)」

 城田「その頃東京でもね、毎日品川のリンクに集まっては、『みどりをどうしようか?』『どうしたら世界に出せるか?』って、話し合いをしてたのよ。連盟では藤森美恵子さんの実家が名古屋、お父様が名古屋の名物市長さんだったという事もあり、ちょくちょく名古屋に里帰り。でも名古屋まで行けない人もいたから、東京のエキシビションに呼んでみよう、と。そこでまず、毎年品川でやってるエキシビションで滑らせたのね。それを見て驚きだった。こんな子がいるんだ。こんな天才が名古屋にいたんだと、氷上のみどりちゃんからを目が離せなかったことを覚えている。それで『これいける!』と、『みどりプロジェクト』が始まったんだけれど…。私も山田先生に、おうちにみどりちゃんを引き取るように勧めたりして」

 山田氏「私がみどりを預かったのは、小学校の5年生くらいかな? でもうちはその前から、選手たちがしょっちゅう泊りに来てたから、みどりが来ても違和感がなかったのね。今は佳菜ちゃんだって、しょっちゅう泊まってる。実は今日も、みどりとその頃のことを話したんだけれど、『あなたはうちの娘よりわがままだったわね』って(笑)。その頃の選手でかわいがってたのが、みどりと大島(現・淳コーチ)と美穂子(現・樋口コーチ)。あの3人が仲が良くて、うちでもよく遊んでた。まあ、一番手のかかったのが、みどりだったけどね(笑)。今は3人それぞれが、それぞれの道を進んでくれてる。3人とも、今でも時々、うちに寄ってくれるんですよ」

 城田「いいわね。先生の所は、ずっと慕ってくれる選手が多いわね。私がその頃、山田先生と初めて一緒に行った遠征は、サンジェルベのアルプス杯(30年前ほど)だと思うんだけれど」

 山田氏「ああ、あの汽車に乗って、ドイツからフランスに移動する大会。各国のスケート選手みんなが同じ列車に乗って、食堂車も付いてて…。あれは良かったわねえ」

 城田「ドイツとフランスの2つの試合を合わせてアルプス杯。その移動の列車の中で、ずっとパーティーやりっぱなし! あの頃が私にとって一番の思い出なのよね。まだみんな、色々な事に無心で取り組んでいて。アルプス杯は、朝ご飯もみんなで用意したのよ。大島君が厨房に行ってゆで卵を人数分もらってきて、みんなでテーブルまで運んで。朝からコンパルソリーの練習をしてる選手たちには、お盆に食事を乗せてリンクまで持って行ってあげて…」

 山田氏「楽しかったわねえ」

 城田「今では考えられない雰囲気でしょう?」

 山田氏「後はオーベルストドルフ大会後のチューリヒ。乗継便の関係で1泊することになった時の話。チームみんなが一つのスイートルームで大家族みたいに泊まったのよね。大島と加納(誠さん)が一緒に寝て、城田さんと私はこっちの部屋で、久永さん(勝一郎氏=元会長)には屋根裏部屋に行ってもらって(笑)」

 城田「あの頃の無心さが、今は懐かしい」

 山田氏「あの時代は、渡部絵美さんや佐野稔君が出てきて『メイド・イン・ジャパン』。日本の選手たちが少しずつ世界に出ていく下準備が出来た頃。会長に、大橋和夫さん、杉田秀男さん、土ケ端武志さん、のこちゃん(城田)という体制が出来上がって…。そこに私たちみたいなのも、ちょこちょこ後ろから付いて行ってた。これから次の時代を作り上げて行こう、そんな時だったから、難しいと事も多かったのよね。でも、楽しかった。色々揉めもしたし喧嘩もしたけれど、今みたいな揉め方ではなくて、もっと意気揚々とした喧嘩だったな。何かやられても、何クソーみたいな(笑)」

 城田「あの頃はみんな『日本を強くしたい!』っていう同じ目標があったのよ。そこに向かってみんなで登って行こう、っていう雰囲気。みんなで一つになって登り詰めるんだ、そんな気持ちを持っていた時代だったのよね」(つづく)

 ◆山田 満知子(やまだ・まちこ)1943年6月26日、名古屋市生まれ。68歳。7歳からスケートを始め高校総体や全日本選手権に出場。金城学院大卒業後、愛知県スケート連盟の手伝いを始め、伊藤みどりと出会う。普及、底辺拡大の信念を貫き、数多くの教え子を国際舞台へ輩出。

(2012年6月15日16時47分 スポーツ報知)

$フィギュアスケート研究本

山田コーチ(右)と仲良くツーショットに収まる城田

日本のメダリストのコーチたち~山田満知子〈2〉

 多くの指導者がいる東京ばかりでなく、米国に送り込む計画も明るみになるなか、天才少女・伊藤みどりと山田コーチとの関係はより深くなっていく。しかし、それは一筋縄ではいかなかった。

 山田氏「実はみどりには色々な人から、色々な声がかかったのよ。東京に来る気はないか、とか、外国にいらっしゃい、とか…。色々誘われたけど、まだみどりも小さかったし、一人ではなかなか外に出せなかった。でも私たちが知らない間に、JOC(日本オリンピック委員会)からお金が出て、アメリカのフランク・キャロルとクリスタ・ファッシの所に送るって話が進んでたこともあったんです。彼女が、中学生くらいの時かな?」

 城田「もう、有無を言わせず『行け』って感じだったのね」

 山田氏「そう。私みたいに何の実績もない先生に、『日本の宝を預けられるか』ってことになったんでしょうね。私が(日本スケート)連盟の人でも、そうすると思うもの(笑)」

 城田「いや、そんなわけではなかったと思うよ。ファッシは当時、コンパルソリーを教えるのがうまくて、いい選手をたくさん育てて、『ファッシ王国』を築いてた。ファッシの所に習いに行けば、きっと(表彰)台に上がれる。そんな時代だったからね」

 山田氏「私も、みどり自身が行きたいのならそれもいい方法かな、と思ったんです。でもみどりって、『上手いね!』って人に思われたがるところがあるじゃない? みどりに限らず、今の佳菜(村上佳菜子)たちも同じですけれど、自分が跳べない所を人に見られたくはない。他の先生に『こんな事もできないの?』って言われたくない。だから名古屋で、私の所でしか練習はしたくない、って言う。アメリカ行きの話も『自分で考えて決めなさい』って言ったら、『私、行きたくないです』ってことになったんです。その時、みどりがワンワン泣いてたのを良く覚えてますよ。どうも連盟の人に、『もうお前なんか、試合に出さない』なんて言われたみたい…」

 城田「連盟が、そんなことを言ったんだ?」

 山田氏「みどりも子供だったから、はっきりしたことは分からないけれど…。でも『もう試合に出られない。私はスケート出来なくなる』って言いながら泣いたのよ」

 城田「その話は知らなかった。ただ、『みどりの奴め、断ってきた』ってことは聞いてたけれど…。私もまだ、強化部の見習いだったからね」

 山田氏「それで結局、アメリカには小沢樹里ちゃんと結城幸枝ちゃんが行くことになったんです」

 城田「うん、それは覚えてる」

 山田氏「その頃のみどりは、私によく反抗してた。でも結城さんと樹理ちゃんが絶対うまくなって帰ってくる、と思ったんでしょうね。そこからはもう、真剣になって練習したのよ。思えば私とみどりが一番うまくいってたのが、その頃(笑)。バレエの先生にも付いたりして、私たちなりにものすごく頑張った。それで結局、その年の全日本フリーという大会で、1位を取れたのね。結城さんと樹里ちゃんに勝てて1位を取れた時は、2人でものすごく泣きました。そんなこともあったのよ(笑)」

 城田「みどりちゃんをアメリカに行かせたいと思ったけど、本人に『名古屋から離れたくない』と言われ、当時の土ヶ端武志強化部長は、何かを始めて行く過程での突破口を開きたかったんだと思う。彼は、強面だけれど、実際は心が優しい人だから…。『天才ジャンパーみどり、ここにあり』って世界に打って出したかったという、純粋な気持ちだったと思うな」

 山田氏「やっぱりそうやって、みんながみどりを欲しがる中、彼女が私を選んでくれた。だからこそ、『みどりのために、ここまではしなくちゃいけない!』って。がむしゃらに努力して、エリートの先生たちが出来ないことをやってきたつもりなんです。私の教えてる名古屋の大須リンクなんて、そんなにたくさん選手がいるわけじゃない。その当時は、15人くらいしかいなかったと思うのよ。その中から一生懸命、大島も、みどりも、小岩井(久美子さん、93年世界ジュニア優勝)も、ちょっとずつ作り上げていった。そんな強みはあると思うし、そうやって一から育てていくことが、今でも私は好きなんです。先生によっては、出来上がった選手たちを仕上げることが得意な方もいらっしゃる。でも私は、小さい子から作り上げる方が好き。粘土をこねる所から始めるのが好きで、それが私の仕事だと思ってるんです。子供たちが一流になって、あるレベルまで達したら、『どうぞ。外で頑張っておいで』って感じね(笑)。もう世に出した、世界に出した時点で、自分の仕事としては終わりなのよ。選手だってそこからは、生意気になっちゃうし(笑)」

 城田「そうそう(笑)」

 山田氏「やっぱり先生には、色々なタイプがいる。私の場合は、それなのかな。またあの当時は、私は名古屋だけど、選手は東京じゃなければ上手くならないって、みんなが思っていたのね。連盟が強くて、みんな連盟にいじめられたりして(笑)。名古屋がそうなんだから、ほかの地方もみんな、そうだったと思うのよ。でも私が名古屋でこの仕事を続けることで、若い先生方や地方の先生方も『名古屋でも、山田先生でも出来るんだ』って思ってくれた。「東京じゃなくても、選手は育つんだね」って、たくさんの皆さんが言って下さったし、私はいじめられてる先生たちに、勇気を与えられたと思ってる。だから今、選手として優秀だった人達だけじゃなく、色々な先生たちが頑張って、のしあがって、みんながいいコーチにもなれたんじゃないのかな」

 城田「連盟が地方に意地悪だったって話は、私も知らなかったわね…。そう思われていたんだ…」

 山田氏「私なんて、有名な選手でもなんでもなかった。でもコーチになってからの運は、すごく良かったのね。いい選手にも巡り合えたし、いいママ達にも巡り合えた。あ、ママたちは、私がいい人だから集まってきたんだわ(笑)。苦労というほどでもないけれど、選手と私、ママたちと私で、本当に二人三脚でやってきたのよ。凄いスターじゃなくてもいいから、私はこの子どもたちを導いて行ければいい、と」

 城田「そう言いながら心は…。手作りで、世界一を目指していたのよ。そんな先生の気持ちを私が知らないわけないでしょ!」

 山田氏「その事について、都築先生(章一郎氏)にも言われたことがあるの。都築先生や(佐藤)信夫先生たちは、ロシアと組んだり、外務省と交渉したり、偉い人たちと一緒に飲んだり、すごく大きな仕事をしてらっしゃったでしょう? それに比べれば私なんて、本当に手内職みたいな仕事(笑)。でもね、『まっちゃんは手内職だけど、手内職らしいものすごく良い仕事してる』って、都築先生が「僕達は、ちょっと規模が大きくなり過ぎたかもしれない』って。『手内職は手内職なりの、大きな仕事があるんだね』って。いい話でしょう?」

 城田「いい話。でも、みどりが世界へ羽ばたける選手になるってことは分かっていたと思うよ。山田先生、話し上手だから…。上手いねェ~控えめで。毎回毎回の試合が真剣勝負だったことは確かだったけれど」

 山田氏「だからみどりだってね、どんな選手に育てたかったかといえば、ただ、みんなから愛される子にしたかっただけなのよ。世界一にするんだ、とか、そんな考えは全くなく」

 城田「それは山田流の教科書なのね。確かにみどりちゃんは、愛される子でした。でもまた同時に、みんなの期待を裏切る子でもあってねえ(笑)」

 山田氏「ハハハ。まず最初は、あの時ね。みどりのために世界ジュニアを日本に持ってくる、そんな計画があった時。で、その先にオリンピックに出そうという計画。あれは、いつのオリンピックだったかしら? カルガリー(88年)の前のサラエボ(84年)?」

 城田「サラエボ! まずサラエボのオリンピックにみどりちゃんを出しちゃおう、と」

 山田氏「まだ14歳で年齢が足りなかったけれど、特例があったのよね」

 城田「そう、世界ジュニアで3位までに入れば、規定年齢以下でもオリンピックにも出られるという。その過程を全部、連盟は計算したんですよ。最初のサラエボ五輪では、まあ10位以内くらいでいい。でもその次のオリンピックでは、このくらい、さらに次は…って計算して、アルベールビルの時は、みどりちゃんを台の一番上に上げよう、と。そのために、サラエボオリンピック直前の世界ジュニア(83年)を、札幌に持ってくる。その前の年の世界ジュニア(82年)でも、みどりちゃんに頑張ってもらって、次の年の枠を増やさなきゃならない。私も82年の世界ジュニアには、『チームリーダーで行きなさい。で、みどりの面倒みなさい』って言われてスタンバイしてた。そんな時、連盟の打ち合わせで品川のリンクにあるミーテイングルームにいた時かな、山田先生から電話がかかってきたのね。『ごめんね』って言われて、『ごめんねって、何? どうしたの?』と聞いたら『みどりが、足折っちゃったの』って!」

 山田氏「ハハハハ」

 城田「その年の世界ジュニア、たった一人しか出られないのに! みどりちゃん一人で、何とか頑張らなくちゃいけなかったのに!」

 山田氏「あの頃はね、ちょっと前に上野さん(衣子氏)に言われてたのよ。上野さんは平松さん(純子氏)のお母さんね。『まっちゃん、みどりちゃんは上手なんだから。無理させないで。ケガだけはやめてね』って。それで『分かりました』って言った矢先に、ボーンって、骨折…。ルッツで自分が開けた(氷の)穴にはまったの。空いた穴の上にトゥを突いた瞬間に、グニャンっ! といってしまったんだって。あんなに広いリンクなのに、ジャンプのコースって決まってるんだよね…」

 城田「あの時の、みんなのガッカリ具合ってなかったわよ…」

 山田氏「82年の世界ジュニアもそうだったけど、それからも色々と」

 城田「そうそう、なんといっても東京の世界選手権(85年)! あの時もみどりちゃん、足折っちゃったのよね」(つづく)

(2012年6月24日16時51分 スポーツ報知)

$フィギュアスケート研究本

1988年カルガリー五輪に出場した山田コーチ(右)と伊藤みどり

伊藤みどりさんの事について、当時のお話が分かる内容ですよね。

山田コーチも、コーチになるつもりはなかったのに、周りの要望でなってしまった。

という事は、やはり運命だったのでしょうね。

そして伊藤みどりさんとの出会い、きっと彼女を育てる事ができたのは、山田コーチだけだったのかもしれません。

海外のコーチにつけた方が良いという話があって、みどりさんが嫌がったという話は聞いた事がありましたが、連盟が強制的に行かせようとしていたとは……。

しかも、行かなかったら、今後、試合には出さないと脅したようですね。

それでも、行かなかったのは、海外では絶対にダメだったからなのでしょう。

連盟は伊藤さんの才能を凄く買っていていたからこそ、最大限の援助をしてくれようとしたのは分かりますが、選手を脅すなんて……。まして、まだ若い学生にですよ。

もし脅されるまま、海外に行って、つぶれたらどうしたのでしょうか。

結局、脅しは、選手を自分たちの思い通りにしたいが為の手段だった訳ですが、その後、海外に行かなかった伊藤さんを試合に出さなくなかった訳です。

才能のある、まして、五輪の年齢制限の枠を越してでも、伊藤さんを五輪に出そうと画策していた事から、彼女を試合に出さなくする訳はなかったのですが、いたいけな少女を傷つけていますよね。

高橋選手がトリノ五輪前に、彼が気圧に弱いも係わらず、行かないと五輪には出さないと脅し、高地に訓練に行けと命令し、調子を崩された例もありました。

↓こちら参照してください。

http://ameblo.jp/shuppansport/entry-10591201436.html
高橋選手トリノ五輪FS

連盟の選手への援助が、彼らの一方的な押し付け、または望む結果が欲しいという理由から来ているのは、今も昔も同じなのかもしれませんね。

フィギュアスケートの選手は若い選手が多いのですから、厳しさも必要ですが、それ以上に精神的なケアはもっと大切だと思います。

大変な苦労はあったとは思いますが、伊藤みどりさんを、五輪メダリスト、また3Aを成功させられる素晴らしい選手へと育てられたのは、山田コーチだったからこそだと思います。



↓山田コーチ、グッジョップです。o(^▽^)o


人気ブログランキングへ