車検を受けたのは昨年の7月、約8ヶ月前だった。 その時から、走行中に「ガゴンガゴン」という異音が気になっていたのだが、修理工場の方曰く「走っていれば直るから」ということだった。 私はタイヤ交換やオイル交換程度のことは自分で出来ても、機械的な修理はほとんど出来ない。 掃除機なども分解は出来ても、再び元に組み立てるのは不可能である。 それで何台の掃除機をゴミにしてしまったことか。 だから、専門家から「走っていれば直るから」といわれれば、それはそういうものなのだろうと納得するしかない。 おそらく人間でいうところの脱臼のようなものだろう、と自分が納得いくような解釈をしていた。 しかし「ガゴンガゴン」という音は日がたつにつれ大きくなるばかりだった。 それでも私は彼の言うとおり、その音が、或る日ぴたりと嘘のように消えることを信じていた。 

 

しばらくして、「ガゴンガゴン」という音が歩行者らにも聞こえているような様子が目に付くようになった。 それまでは、車の異音は車の下部から聞こえてきているが、車内が空洞なので車内には余計に響いて聴こえているのだろう、歩行者たちにはそれ程音は聞こえていないだろう、と思っていた。 そこから悪いことに、ブレーキを踏むと「キキキキキー」という異音までなるようになった。 ここまでくると走る狂想曲である。 さすがに「走っていれば直る」という言葉が信じがたくなった私は、ほかの修理工場のセカンドオピニオンが聞きたくなった。 果たしてこれは「脱臼」程度のものなのだろうか、と。 

 

日曜日、「明日は月曜日だから、別の修理工場に持っていこう」と決意したときにそれは起こった。 「ガゴンガゴン」「キキキキー」「ガゴンガゴン」「キキキキキー」という狂想曲を奏でながら、遠出していた先から市内に入ろうとしたところで、運転席から見ていた前方の景色が左に三十度ほど傾いた。 おや?と思って、左に傾いたままの体勢で助手席のサイドミラーを見ると、そこにはタイヤが一本、後ろへ転がっていくのが映っていた。 あれ、私のタイヤ?と思った瞬間、「ガガガガガガガー!」と傾いた車体が路面をこすっているような音と、その振動がハンドルに伝わった。 慌てて減速し、近くの駐車場になんとか入れることが出来た。 偶然にもそこはタイヤ屋さんの駐車場だった。

 

車を降りてみると、外れたタイヤは確かに自分のタイヤで、路面にタイヤの外れた車軸が大きく弧を描いていた。 タイヤ屋さんは営業中だったので、事情を話して駐車場にとりあえずの間、車を置かせてもらえることになった。 タイヤ屋さんのかたがたは、親切にも私の車を通行の邪魔にならないところに移動させて、タイヤの外れた箇所をみてくれた。 しかし、タイヤ屋さんはタイヤ専門なので、修理は出来ないとのことだった。 これはセカンドオピニオンを聞けるきっかけかな、と、予てよりセカンドオピニオンを聞きたいと思っていた修理工場に電話してみたが、日曜日だったのでつながらず、結局、いつもの修理工場の方の個人の番号に連絡したところ、15分ほどで来てもらえた。 

 

壊れた箇所をみながら、彼は「あぁ、これ走っているときに変な音がしなかった? 変な音がしたら、すぐに停車して、それ以上走っちゃだめだよ」と言った。 私は壊れた車の中にハリセンを積んでいなかったかと探してみた。 もちろん、その彼に「走っていれば直るって言ったのはあんただろうが!」という突っ込みを入れるためだ。 

 

 

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東日本大震災から、8年が過ぎた。

テレビでは、当時12歳の小学生だった子供たちが二十歳の自分たちへ宛てた手紙を入れたタイムカプセルを、二十歳になった彼らが掘り起こすという番組をやっていた。 

改めて小学生が二十歳の成人になるほどの年月を感じた。

  

8年、私には何が出来ただろう、何をして来ただろう。

津波の到達時刻、午後2時46分、市内にサイレンが鳴り響き、一分間の黙祷を捧げる。

胸を刺すようにこみ上げてきた痛みは、自分の無力を嘆くものだったのかもしれない。 

「私が市長だった時代に、もっと何か津波対策で出来たことがあったはずだ」と無念の表情を浮かべた、元市長の気持ちが痛いほどに分かる。

 

仕事の合間を縫い、追悼式の会場へ献花に向かった。

雨のせいだろうか、それとも8年の年月の経過とともに、会場に来れない人たちが増えたのだろうか。

会場には昨年に比べると、来場者が少なかったように思える。 

それが人々の気持ちの中でも復興が進んでいることの現われだと前向きにとらえると、悪い気もしない。

 

私はしばし立ち止まり、祈りと花を手向けた。

 

 

 

 

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向こうの世界には、「昼と夜」や「四季」というものがあるらしい
  

時に淡い光が、青く、白く
 
違うのは、きっとそのせい
 
  
向こうの世界に棲むものたちは、命を終えることが出来るらしい 
 
私のなかは、始終賑やかだったけれども、 
 
どうしてか同情されるのは、きっとそのせい 
 
 
~☆~★~☆~★~☆~★ 
 
『顕微鏡で貝の層の数を調べたところ、年齢は405年から410年で、過去に発見された最長寿の貝より30年以上も長生きだったことが分かった。
貝は採取時には生きていたが、年齢を調べるために肉をはがしたことで長い生涯を終えた。
研究チームは「この貝は、シェークスピアが『ハムレット』や『オセロ』を執筆していた時代から生きていた計算になる」とたたえた。』
【動物で最長寿、400年以上生きた二枚貝を大西洋で発見 : 科学 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)】
https://www.yomiuri.co.jp/science/news/20071030i305.htm

ある晴れた日の昼休み、車で5分も山を上れば行ける神社に行ってきた。 ぴたりと時間が止まったかのような静寂が、その場所をより一層特別なものに感じさせる。 吹いている風も、町中のそれとは異なっているように感じる。 私は、砂利の敷き詰められた駐車場に車を止め、石段を上がり、一礼して鳥居を抜けた。 

 

 

入り口にあった手水場の柄杓で水を掬い、手を洗い、口をすすぐ。 木々の間から差し込んだ午後の光が、社を浮かび上がらせていた。

 

 

賽銭箱に硬貨を投げ入れる。 それから山の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。 じんわりと胸にしみこむようだった。 その山の空気に触れる程度にしておけばよかったものを、「頂上まで600メートル」という看板を見つけて、散歩がてら上ってみようという気持ちになり、山頂へと足を進めた。 ややして、倒木が道を塞いでいる場所に差し掛かった。 思えば、これが神様から「行くな」というメッセージだったのかもしれない。

 

 

しかし、私は、その倒木を乗り越えていってしまった。 それが数十分のつもりだった昼休みを、3時間ほどにしてしまった始まりだった。 倒木を乗り超えて進んでいくのは良いものの、道が分岐していたり、途中から無くなっていたので、勘だけを頼りに道を進んでいだ。 とうとう進める道もなくなり、自分の位置も怪しいものになってしまった。 引き返そうにも、道なき道を勘だけで進んでいたので、来た道すらよく分からない。 一方向にまっすぐ進めば、どこかに出るだろうと思ったが、急斜面や簡単には進めない棘のある穂を掻き分けていかなければならないので、それもままならない。 ところどころの木の幹には、別の木の幹が絡まって生えていて、まるで大蛇のようにも見えていた。 

 

 

どのくらいの時間が経っただろうか。 迷いに迷った挙句、建物の青い屋根らしきものが見え始めたので、おそらく神社の屋根だろうと考え、そちらに向かって進んだ。 が、建物はひとつだけではなく、相当数がまとまって建っていた。 どうやらそこは、神社からは山を挟んで反対側にある団地だった。 とりあえず山からは出られそうだったので、その団地へ向かって急斜面を慎重に降りた。 見ていた人がいれば「何故スーツ姿の男がヘロヘロになりながら、山から下りてくるのだろうか」と、不審に思ったことだろう。 私は「山の中から町を見て何かの調査をしていた調査員」になりきったつもりで、「ぜんぜん迷子になんかなってませんよ、調査してただけすから」という心持と言い訳を胸に、団地へ下りた。 革靴の底に、土ではない、アスファルトの感触が感じられ、安堵感がこみ上げる。 そこから車をとめてあった、山の反対側の神社まで徒歩で向かわなければならなかった。 よほどタクシーでも呼ぼうかとも思ったが、意を決して歩くことにした。 久々に汗を大量にかいた後に飲む水が美味しかった。 その夜は寝ているときに足がつりまくった。 山の中の斜面の上り下りが足の筋肉に堪えたようだ。 下手なことは考えるものではないが、何はともあれ無事に帰ってこれたのは神様のおかげだったと思う。 「警告」を無視した阿呆を助けていただいたことに感謝。 

 

今から遥か昔のお話。

 

地上のカイヨム国と、海底のアーク・ブリア・ショア国は、両国の間の海洋資源を巡って対立していた。

 

火花を散らしていた両国は、あるきっかけで何年にもわたり多くの犠牲を払う、海戦へと突入することとなる。

 

その両国が戦争に疲弊してきた頃を見計らい、間に割って入ってきたのが、エアサス国である。

 

エアサス国は、弱っていたカイヨム国とアーク・ブリア・ショア国を滅ぼし、一帯の海域と領土をその手中に収めるつもりだった。

 

そこで、カイヨム国とアーク・ブリア・ショア国は即時停戦し、エアサス国に立ち向かった。

 

更なる犠牲者を出してしまったが、両国は辛くもエアサス国を撃退することができた。

 

以来、両国は同盟国となった。

 

そして毎年の初春の頃になると、アーク・ブリア・ショア国の使者たちがカイヨム国を訪れて親睦を深めるのが伝統行事となった。

 

それは、カイヨム国と呼ばれていた国が「宮古市」となった今でも続いており、その伝統行事は「毛がに祭り」と名を改め、かつて両国が鎬を削った海岸は、戦争の犠牲者の鎮魂を願い「浄土が浜」という名称が名づけられた。

 

(写真: 2019年 アーク・ブリア・ショア国のカニ姫とその家来たち)

  

 

 

そんなわけあるか。