7月に初来日を果たすシカゴのブルースマン、チャーリー・ラヴ(Charlie Love)

実は彼について、1998年のブルース&ソウルレコーズ誌の小生のコラム「シカゴ・ブルースの歩き方」で取り上げていた。(すっかり忘れていたけど、昔の記事を開いてみたら出てきたので自分でもビックリだ笑。

せっかくの機会なので、その記事を抜粋してみよう。




ギタリスト/シンガーのチャーリー・ラヴは、シカゴの人気ブルース・クラブ<キングストン・マインズ>で毎週月曜と木曜にレギュラー出演している。

同店でのレギュラーも9年目を迎えて、週末に出演しているJWウィリアムズと並んでマインズの顔といってもいいんじゃないかな。

フランスで録音したアルバム『SO HAPPY I COULD CRY』がリリースされ、活動範囲もアメリカだけじゃなく、ヨーロッパにも広がりはじめてきた。

チャーリーの魅力はなんといっても歌だ。太くて深い声で歌われるブルースは力強くも、ナチュラルで小生はあんなふうに歌えたらいいなあ、といつも思ってしまう。

チャーリーは1956年シカゴ生まれというから、ブルースマンとしては新しい世代に入るのだろうけど、「僕の母親はブルース・シンガーで、ダンサーでもあった。親父はハーモニカ・プレーヤーだったよ。小さいころからずっとブルースを聞いて育ったし、ブルースを今でもプレーしている」と本人が言うように、生粋のブルースマンと言ってもいいんじゃないかな。

黒人の多くが影響を受けるゴスペルも、「教会で聞いてはいたけど、クワイアーで歌ったこともないし、ブルースほどの影響はない」そうだ。

ジミー・レクリフというギタリストがよくチャーリーの家に来てはバンドのリハーサルをやっていたのを見て自分もギターを始めるようになる。

「もう25年も前のことだよ。ジミー達が練習をしにウチにやってきて、その休憩の時にギターをさわってみたんだ。そしたらジミーが『そのギターをそこに置け。もし本当に弾きたいのなら俺が教えてやるよ』って、それで僕のギター人生がスタートしたのさ」

ミュージシャンの道をスタートさせたチャーリーがその頃頻繁に通ったのはサウス・サイドの<チェッカーボード・ラウンジ><テレサズ><リーズ・アン・レデット>の3つのブルース・クラブだった。今は亡きレフティ・ディズ、バディー・スコットらにかわいがられ、飛び入りさせてもらい腕をみがいた。

バンドに飛び入りして腕を磨くというのが、シカゴ・ブルース界で活躍するミュージシャン達が必ず通る道で、これによって曲を覚え、アンサンブルとプレーの仕方を学ぶんだね。

と、いう小生も飛び入りを繰り返しながらミュージシャンとのコネを作り、曲を覚えていったものだ。こっちのミュージシャンはデモテープなんて持っていっても聞いてくれないし、一緒に演奏した時の感触が全て。飛び入りを繰り返しながら、腕を認められればバンドにレギュラーメンバーとして抜擢される、という図式だ。

「自分ではじめてバンドを組んだのはもう16年くらい前のことかなあ。当時はチャーリー・ラブ&ジャスティスと言っていたんだ。その後名前がホット・リンクス、そして今のシルキー・スムース・バンドに変わっていたんだけど。当時はサウスのクラブやホーム・パーティーなんかで演奏することが多かったね」

50~60年代には43、47、79、87丁目などサウスサイドの大きな通りには何軒ものクラブが並んで朝まで営業していたそうだけど、70年代も後半にはいるとブルースが下火になり、多くのクラブが店をたたんでしまっていた。

チャーリーはちょうどその頃にブルースを始めた。

「あの頃に比べればブルース・クラブの数はずいぶん増えたよ。特にノースサイド、あるいは地方のほうにどんどんできているね」

最後に将来の目標は?と聞くと「ブルースを生き存えるために力を尽くしたいね。マディやハウリン、ウィーリー・ディクソンなどが残していった足跡を世界に広めていければ、と思う」とのこと。

オーソドックスなシカゴ・ギター・ブルースを今後も続けていってくれることだろう。







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Kuniyamさん:ライブを楽しんでもらえて嬉しいです!!ありがとうございます^^
まるさん:ありがとう~。長年プレーしていると、いろんな局面に出会いますね。それを経てさらに音も熟していくという事かなと思ってます!
Atsuyoshi君:忙しいだろうから、また次の機会にね!!元気で頑張ろうな^^