シカゴからの情報によると、7月19日から21日にかけて青森で行われるJapan Blues Festivalに出演が予定されていたココ・テイラーのバンド"Blues Machine"とシンガーのチック・ロジャース、さらにローリー・ベルとの契約が無事に済んだそうで、出演が正式に決定。小生は、Blues Machineの一員として出演します!

Blues Machineは、2008年のツアー中に大事故にあい車内にいたメンバー全員が大怪我を負い、さらに翌年にココが亡くなってしまったので、なんと4年ぶりのステージになります。

ココが生きていたらBlues Machineの再結成に、写真のような大きな笑顔でハグしてくれたろうと思います。きっと、青森のステージには、ココも降りてくることでしょう。

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(カリフォルニアのロングビーチ・ブルース・フェスにてココとブルース・マシーンと俳優のスティーヴン・セガール)


ココの事が思い出されて、古い原稿を引っ張り出してきました。ブルース&ソウル・レコーズ誌2009年秋号に書いた、ココへの追悼記事です。時間のある人は読んでみて下さい。


 ココが亡くなって1ヶ月半が過ぎた。スペイン・ツアーに参加したため、ウェイク(お通夜)や葬儀に参列できず、やっと昨日シカゴ・サウス郊外のホームウッド市にある墓地にココを見舞って、彼女の死を受け入れることができたように思う。この数年、いつかは訪れるのだと覚悟をしていたつもりでも、いざ亡くなってみると、本当に大きな存在を失ったのを実感している。 
 メンフィス郊外で生まれたココは、生後間もなく母親を亡くし父親に育てられた。その父親も彼女が11歳の時に他界。「母親の記憶はないわね。姉のヴァイは覚えているそうだけれど。父親は、週末に飲むウイスキーが生き甲斐のような人だったわ。酔うと古いを歌っていたわね」と当時父親が歌っていた曲の一部を口ずさみながら、幼少の記憶を話してくれた事がある。その曲は、聞いた事の無い当時の流行歌だったのだろう。ココ本人も曲のタイトルは思い出せなかった。前の旦那のポップス・テイラーとシカゴに来て以降のサクセス・ストーリーについては、他の紙面でも紹介されているだろうからここでは割愛させていただこう。
 ココの名を世に知らしめたのはチェス・レコードとウィーリー・ディクソンだけれど、それ以上に長い付き合いだったのが、70年代中期からアルバムを出し、マネージメントも担当していたアリゲーター・レコードのブルース・イグロア氏だ。ココが亡くなった当日、病室で少しだけブルースと昔話になった。
「出会ったばかりの頃、ココは僕に可能性を見いだしたようで、盛んにアルバムを作ってくれと言って来た。自分のバンドも持っていたしツアー用のヴァンも用意していたし、本当にやる気が感じられたんだ。楽器をプレーしないシンガーをどうやって売り出したらいいのだろうって、不安な部分もあったけれど、彼女の実力と人間性に賭けてみたんだ。以来、34年の付き合いになるよ」と、ブルースは言っていた。
 小生は、1996年に出した拙リーダー作”Chicago Midnight”(キング・レコード) にゲスト・シンガーとして2曲で参加してくれたのがきっかけでココと出会い、2000年10月からは彼女のバンド、ブルース・マシーンのレギュラー・メンバーとして活動を共にするようになった。ココは、世界中のいろんなところに連れて行ってくれたし、B.B.キングやボニー・レイット、ジミー・ヴォーンはじめ多くのメジャーなアーティストに出会って、共演するチャンスを持てたのも彼女のおかげだ。バンドに入って最初の数年は、ステージ上で睨まれる事が何度もあった。自分の求める音が出て来ないと、ものすごい厳しい表情をぶつけてくる。男ばかりのメンバー達を長年リードしてきた、まさに男勝りの強さをココに見たのだった。でも、いったんステージを離れると、柔和な女性の顔に戻る。ギャラを払う時には、「ちゃんと数えて確かめるのよ」と、母親のように何度も念を押すのだった。
 当時彼女はすでに70を越えていた。病歴もあったし、この9年間で6ヶ月のブランクをはじめ、何度か病気でギグをキャンセルしたこともあった。時には血糖値が400に上がって、歌えるような状態ではない時も。でも、いったんステージに上がってしまうと、生き生きと歌い、ステップを踏む。神か天使かいろいろ言い方はあるだろうが、とにかく上の方から力を注がれていたのは間違いない。やはり選ばれた人だったんだと、今になってそう確信している。
 それでも、ココなりに葛藤もあったようだ。2004年に6ヶ月のブランクから復活した最初のコンサートは、インディアナでのBBキングとボビー“ブルー”ブランドとのジョイント・コンサートだった。4000人のお客さんを前にしながら思う様に歌えず、終演後に楽屋で「お客さんをだましてしまった」と涙を流して悔しがっていた。それ以降、前のような厳しくギラギラした表情をステージで見せることはほとんどなくなった。最後の2年くらいは、薄れて行く記憶との格闘でもあった。ステージ前にその日のキー合わせを楽屋でやるのだけれど、キーを合わせた5分後には、再びキー合わせをやろうとする。もうやったよ、と何度も念を押すのが小生の仕事でもあった。
 体調や記憶力の衰えがあったとは言え、どんな状態でもその時のベストを尽くし、持っている全てをお客さんに捧げる。だからこそ、あれだけ心を揺さぶる歌が歌えたのだろうと思うのだ。“Hey You”とシャウトした声が迫力に満ちていて、自分が怒られているのかと錯覚して後ろにのけぞってしまう事が何度もあった。こんなシンガーは20年の自分のキャリアの中でもココ一人だけだ。
 人好きで、誰にでも優しく接していたココは、本当に多くの人から慕われていた。彼女からいろんな事を教えられたけれど、その核になるのはやはり人へのリスペクトだろうか。”Treat people the way you wanna be treated(人にして欲しいと思う事をしてあげなさい)”は口癖だった。偉大なシンガーである以前に、愛すべき素晴らしい人間だったココと9年間も一緒に活動ができて、ラッキー以外の何ものでもない。プレーすることも、話す事ももうできないのかと思うと、寂しさでいっぱいになる。そして同時に感謝の気持ちで満たされてもいる。その二つの気持ちが自分の中でどっちかに偏りながら、なかなか安定してくれない。まだまだ時間が必要なようだ。
 とにかくプレーを続けよう。ココもそれだけは間違いなく喜んでくれるだろう。 
 
菊田俊介