最近、WEBサービスの集客について考える事が多い。

集客といえば、真っ先に想起されるのは広告だろう。

この文章の右に見えているアレだ。スマホなら下で今この瞬間もウロチョロしている邪魔なアレだ。

その気になれば僕はこの広告枠を買い取り、自分の電話番号を書いた画像を乗せて、このブログを見ているギャル達にリーチしてウハウハな夢世界に旅立つことができる。

この広告枠の価格は、ほぼPV数で値段が決まると言って差し支えない。


では、CMの値段は、どうやって決まっているのか。

ぶっちゃけ、ここに根拠は1ミリも無いと思っている。
所詮、視聴率はランダムに選んだ6600世帯を元に決まっているのだ。
たまたまその6600世帯全てがトルコ人だったとしたらケバブ特集が視聴率400%を叩き出すことだろう。

CMの効果測定となると、更にアテにならない。全てが推定に過ぎないのだ。

「多分このCMを見た人のうち0.01%がウチのサービスを使うだろう」

この0.01%の合意を得るためにキャバクラ接待が行われ、僕のような新人が飲み過ぎて吐いて、上司が媚びへつらい、僕は吐いて、翌朝には試算をまとめ、吐いて、遅まきながらヘパリーゼを飲んで吐くことになる。

試算にしたって「道端に置いたバナナの皮をエゾジカが踏む確率」を計算するのと精度はさほど変わらない。

こんなに効果の不透明な媒体に出稿する企業は、本当に儲かっているのだろう。
大学生諸君は今すぐ会社四季報を焼いて暖炉にくべて、代わりにCMの放送回数を記録して就職先を決めたほうがいい。


大体カンの良い人は気づいただろうが、僕はCMが大嫌いだ。

逆に、CMに頼らず集客しているサービスが大好きだ。
更に逆に言えば、元々CMは使っていなかったサービスが突然CMを使い始めたら、僕はそのサービスを嫌悪する。
そこに更に逆を言えば、CMを打ち切った企業には喝采を浴びせる。

とはいえ、これまでガンガンCMを流していた会社がCMを打ち切る時には、大体ロクなことがない。
目の付け所がシャープじゃなかったり、粉飾決算のleading innovationをしていたりする。

このブログを見ているあなたも、CMの使い過ぎには気をつけよう。

最近、非常に仕事が多い

それでもブログを書く余裕があるのだからまだ死期は遠いのかもしれないが
個人的には5月の桜、散りかけの気分だ。

そして確実に、異常な肉体症状が出始めている。

最近、全身がかゆい。
それはもう、常にかゆい。
しかし困った事に、かゆいところが全く分からないのだ。

手首がかゆいと思ってひっかいたら、全く気持ちよくない。
その代わり、痒くも何ともないふくらはぎを掻くと気持ちよかったりする。

例えるならキレのいいスライダーを投げられたような気分だ
ここだ!と思ってバットを振るものの、まるで煙のようにバットをすり抜けてしまう

別のものに例えるなら、ベッキーのようだ。
町中ですれ違って「かわいい!」と思って振り返るものの、よく見ればそれなりに不細工である。
肩すかし、と言うのだろうか。その感覚に近い。


こうも痒いところが分からないと、四六時中全身をかきむしることになる。
ここ数ヶ月、全身をかきむしり続けて見えてきた、いくつかのルールがある。


1:同じ攻撃は、二度効かない

この痒みに同じ攻撃は二度通じない。
さっきは気持ちよかった場所をかいても、そこが快感を生む事は断じて無い。

さながらコンパスと海図だけを頼りに七つの海をさまよった大航海時代の船のように、今日も僕は全身を自分の指と爪だけを頼りに航海している。


2:最初に痒くなった場所は、大体ハズレ

ゆえに、最初に痒くなった場所には一つフェイントを入れる。
「掻いちゃうぞ」とアピールすることで痒みが移動するので、そこを仕留める。

魚の追い込み漁と同じ要領で、左手でかゆみを牽制しつつ右手で刺す。
左手は添えるだけ・・・


3:本当に大切なものは、失ってはじめて気づく

しかし、掻きむしるのに没頭しすぎてはいけない。
あなたが掻きむしっている間、あなたの仕事は止まってしまうし、
なにより周りの誰が見ているか分からないのだ。

僕は小さい頃、誰にも見られることなく鼻くそをほじるのが特技だと信じていた。
しかし去年の同窓会で「お前、めっちゃ鼻くそほじってたよな」と指摘され、非常に大きなショックを受けた。
自分が思っている以上に自分は見られているようだ。

そして一度「鼻くそをほじるやつ」と思われたが最後、「鼻くそをほじらないやつ」というステイタスは永久に失われる。

僕が将来「情熱大陸」に出演し、UNICEF募金に1億円を寄付し、ベンガルトラの絶滅を食い止めたとしても彼らに取って僕は「鼻くそをほじってたやつ」でしかない。

金は後で手に入れられるが、汚名は二度と返上出来ない。気をつけよう。


4:ひたすらにレベルアップしていく

あなたが、たまたまスイートスポットを見つけて掻きむしったとしよう。

それは、まだ序章に過ぎない。

ポケモンに例えるなら、マサラタウンの茂みに出てくるレベル2のキャタピー。
その気になればトレーナーが直接なぐって倒せるレベルだ。

しかし奴ら、痒みは進化する。

最初は手首だったスイートスポットが、どんどん難解な場所に移動するのだ。
手首→ふくらはぎ→足の裏→背中のど真ん中→ケツ→ケツの穴の横(今ココ!)

お客様への提案アポ中に、徐々に難易度の上がるスイートスポットを網羅する難しさがお分かりいただけるだろうか?

わざと落としたペンを拾う一瞬、靴下を引っ張ることで革靴に守られた足を掻く。
「あちらのグラフをご覧ください」とプロジェクターが映し出した映像を指差し、クライアントの注意を逸らした一瞬の隙に背中を掻く。
ちょっとハンカチを探しているフリをしてケツの穴を掻く。

これだけの事をしながら同時並行でクライアントの課題解決を図るのは、並大抵の事ではない。

正直、脳みその9割は痒いところを探すのに費やしている。
残り1割は今夜の献立について考えている。
これだから僕は生産性が低いのだろう。

この一件を経て、日本人の生産性が低いと常々批判にさらされている責任の所在が垣間見えた気がする。行政だ。


5:戦う以外の選択肢は、ない

野菜を摂る?運動する?ストレスを減らす?そんなものは凡夫の発想だ。
真の猛者は、ひたすらに戦う。

栄養バランスを崩し、運動を怠り、自分より立場の低い者に当たり散らしながら
痒みとの戦いに真摯に向き合っている。

佐藤優は、著書でこう述べている。

「ケツの穴が痒ければ、恥ずかしがらずに掻く。これがウラジオストクで私が学んだ、交渉の極意です」

僕らは日々、目の前の仕事と戦っている。
それが社畜戦隊サラリーマンの使命だ。

だから、僕も痒みから逃げない。
明日は孫の手とアナルビーズを買って、万全の準備で挑みたい。
今日は、担当商品に関するカスタマーヒアリングをしてきた


が、ここには大きな問題が潜んでいる。

僕はコミュ障なのだ。
自分については常に雄弁に、いくらでも話し続ける事が出来る。
それこそ道端にタンポポが咲いていた事について1時間話せる。

しかし相手から話を聞くのが致命的に苦手だ

「あ、どうもシュンです」
「どうも」
「えっと・・・利き腕はどちらですか?」
「えっ?あ・・・え・・・右です」
「あ、右ですか・・・良かったですね。世の中の大半の製品は右利きの人が使いやすいように作られているので、左利きの人は日々蓄積するストレスが原因で右利きより短命だそうですよ」
「あ、そうですか・・・」
「えっと・・・ご趣味は?」
「あ・・・読書です」
「へぇー・・・」
「・・・」

こんな調子だ。

つまり人と「雑談」ができない。
うんちくか、訳の分からない思想の押しつけか、キックボクシングのスパーリングしかできない。

そんな僕が、カスタマーヒアリングをする。

これは例えるなら先端恐怖症の人間がフェンシングでソチ五輪を狙うとか、
風が吹けば足が複雑骨折するような軟弱人間がラグビーをやるようなものだ




というわけで、先週はモデレーターの技術やら雑談力に関する本を20冊以上読んで
日常会話で徹底的に練習して、カスタマーヒアリングに備えて来た。


先週学んだ知識によると、どうやら商品価値には、いくつか段階があるらしい。
機能的価値、情緒的価値、精神的価値だ。
(こうして何かを分類するだけでマッキンゼーで働いているコンサルタントの気分が味わえる。
 世の中には二種類の液体が存在する。牛乳と、牛乳以外だ。という具合に。)

例えば車を購入した理由を分類するとしたら
「マニュアル車だから買った」が機能的価値
「マニュアル車を操れるカッコいい男と異性に思われたいから買った」が情緒的価値
「異性にカッコいい男と思われると余裕が生まれて、幸せを感じるから買った」が精神的価値

みたいな感じだ。
カスタマーヒアリングはこれら全ての価値を余す事無く聞き出す必要があるらしい。


例えば僕が今日、夕飯にひじきのごった煮を購入した理由を分類するとしたら
「ひじきは健康に良さそうだから買った」が機能的価値
「スーパーでひじきを買う僕を見たギャルが「あぁ、あの人は自分の健康に細心の注意を払うことで常にプロとして仕事に全力で挑めるように自己管理している人なんだから私のことも大切にしてくれるに違いない抱かれよう」と思われたいから買った」が情緒的価値
「ギャルを抱きたい」がゲスの価値。そう、僕はゲスなのだ。


論点(イシュー)が少しズレてしまったが、日々の会話(コミュニケーション)を違った観点(パラダイム)で見ると、新しい(イノベーティブ)発見(ブレイクスルー)があって面白いので試して(PDCA)ほしい。
(マッキンゼーで働く感覚は、横文字を多様する事でも味わえる。
 なんだかもうマッキンゼーで働く必要性を感じなくなってきた)

新しい発見がなくとも、自分の仮説を裏付けるような事実にたどり着くかもしれない。
例えば以下のような感じだ:

仮説:僕はコミュ障である

先輩:「今日は天気がいいね」
僕:「そうですね。ところで、天気が良いと、どう感じますか?」
「気持ちいいよね」
「なぜ、気持ちよくなるのですか?」
「え・・・・うーん・・・普段はビルの中にいるし・・・ストレス溜まってるから・・・」
「ストレスが溜まる、というのは具体的に言うと?」
「空気が濁ってて気持ち悪いとか、狭いからあんま開放感が無いというか…ってか何なのお前、話し方どうした?」
「僕の話し方の違和感を色に例えると、何色ですか?」
「シバくぞ」
「ごめんなさい」

事実:僕はコミュ障だった


しかし、いざ「自分はコミュ障だ」と認めてしまえば幾分か気分が楽になる。
そのおかげか、今日のヒアリングはそこそこ上手くいった気がする。
明日先輩に共有してシバかれるまでは、しばし達成感に浸っていようと思う。



コミュ障は辛い。
特に、コミュ障だけど人好きだと、もっと辛い。
仲良くなりたいけど、上手く仲良くなれないのだ。

だから僕は言葉が通じないドイツに引っ越した時、とても幸せだった。
なにせ言葉が通じないのだからコミュ障も何も無い。

サッカー場に一人でフラリと立ち寄って、ゲームに混ぜてもらうのも簡単だ。
会社の同僚とロッククライミングに行くのも簡単だ。「Kletter?(のぼる?)」とだけ言えば済む。

しかし徐々にドイツ語が分かってくると、必然的に会話が生まれる。
そうすると僕はコミュ障に戻り、まともな会話が出来なくなる。

本当に、コミュ障は損だ。
しかし、そう考えていても仕方ない。
コミュ障にはコミュ障で良いところがあるのだ。今日は、そのことについて書いてみたい。


まず、コミュ障であるメリットその1。




















なにもおもいつかない。諦めよう。