どうも、荒井です。

最近、坊垣さんや堂前さんなど、昔から子会社の経営に携わっておられる方々とランチをご一緒しまくらせていただいています。

私がサイキャストの経営を担う上での問題を解消するためです。それとはすなわち、

 

「事業立ち上げの成功と猛烈な仕事量は、不可避な繋がりにあるのではないか」という問いです。

 

前提としてクリアにしておきますが、自分は長時間労働を強いられているわけではないです。そのような日々の過ごし方ができているのは、社長である曽山さんがしっかりと社員のコンディションを作ってくださっているお陰で、それは非常にありがたいのですが…

 

少なくとも日本で台頭している経営者は(世界の標準はわかりませんが)、弊社も含めて命の瀬戸際のような労働環境と修羅場をくぐり抜けて今の地位を築いていらっしゃる印象があります。そしてそれを美徳としたい欲求も、自分も含めて社会には存在しているような気がするのです。

 

この本能は頭でしっくり理解できてしまうのがまたこの不安の根深いところで。経営者として必須な土壇場力や格が、こうした修羅場から培われていることは容易に想像がつきます。サイキャストの担当役員をして下さっている山内さんの、圧倒的な覇王色の覇気もしかり、です。

 

体育会系で培われたマインドが、採用で揺るぎない需要があるように、かつて当たり前だった「自分ではコントロールできない膨大な仕事量や理不尽さに耐え抜く、という経験」が自分の目指す世界で活躍できる経営者に必須だとすれば、まさに今の自分はそうした経験が物理的にシャットダウンされるという、これもまたある意味理不尽なところにいることになります。

 

だから自分としてももっと過酷な環境を経験したいし、また経験しないとダメじゃないか、という思いが募る時があります。

 

「部活で水を飲んでもOKになった」という時代の変化は、パフォーマンスというブレない軸の下での変化であるのに対し、「死ぬほど働くことを強制されなくなった」という時代の変化が、本当に成果というブレない軸の下にあるのか、なんとなく違うような気がして、そこに本能的な不安をずっと抱いていました。

 

 

ですが

 

冒頭にようやく戻るのですが、今までランチをご一緒した、修羅場くぐりの経営者たちは、この変化を成果の為の変化であると、驚くほど明確に断言します。

「あの頃はめっちゃ働いてたけど、生産性は最悪だった」

「今だったら3分の2の時間で同じ成果出せるわ」

「根性はついたけど、それだけだね」

「経験上、もっといい方法があったなという感想」

などなど、モーレツ社員の権化のような皆さんは、あっけらかんとそうおっしゃいます。笑

 

そのかわり、彼ら、彼女らは、こうもおっしゃいます。

「強制労働がなくなっても、自分の24時間全てが仕事に繋がるのは変わらないよ。」

 

 

本当にその通りだと思いました。

このアドバイスを受けて、自分も24時間の全てを仕事の成果のために使わなければな、と思っています。

 

読書と勉強のインプットはもちろんですが、こうした発信も自分を知ってもらうことで仕事がしやすくなります。毎日泳いだり走ったりすれば大事な時に必ず仕事をやり切れる体を作れます。しっかり寝るのも昼集中して仕事をするためです。休日なるべく違う過ごし方をして色々な展覧会やお店や場所に赴けば、映像の仕事をしている以上必須な「感じる」という経験を広く深くできます。

 

時代の潮流を成果という軸で解釈し、より責任のある過ごし方をするように己を律すべし。全てを経験してきた先輩経営者からの素晴らしいアドバイスでした。