昔とある記事で石原慎太郎さんの死生観を読んだとき、自らの死生観とほぼ同じで驚いた記憶がある。 

 

死後は「虚無」、あの世には地獄も天国もなくただ虚無が続くのみというもの。

 

 

幼いころ夜の星空を眺めていた時、「ここにあるすべての星は太陽のように燃え盛っているんだよ」と教えてもらった。

 

その時に私が思ったことは太陽の炎ではなくその周囲の暗黒。

 

この広がり続ける暗黒。

 

子供心に「死んだらあの暗黒に行くのかな」と思った。

 

 

宗教を否定しているのではない。

 

人間には宗教が必要であると個人的に考える。

 

法華経を始めとした経典にある言葉は、人生の哲学として私に大きな影響を与え続けている。

 

ただ、母親の影響もあるのか亡くなった後の世界というものについて全く想像ができない。

 

あの世というものがあるという想像がまったくできない。

 

もちろんこれは先祖に対する感謝が不要であるという意味ではない。

 

生きる者として自らに生を与えてくれた存在に感謝し、祈りを捧げることは非常に重要である。そう考えて母親の墓には通い手を合わせている。

 

 

生を受けたということは、自分は太陽のように燃えさかる宿命を授かったということ。

 

生きているということは太陽のように燃えさかること。

 

そして死は、燃え盛った後に燃え尽きること。

 

しっかりと燃えさかることができればしっかりと燃え尽きることができる。

 

燃え尽きてしまえばそこには何もない。

 

だからこそしっかりと燃え盛りしっかりと燃え尽きる生き方をしなければいけない。

 

これが私の死生観。

 

 

そして太陽のように燃え盛るとは、太陽のように全てのものに恵みを与える存在になること。

 

太陽はあらゆるものに恵みを与えている。

 

自分が小さな太陽になったということは、燃え盛ることによって人々に恵みを与える使命が与えられたということ。

 

炎は人々に災いをもたらすかもしれないが、太陽は直接的に人々に災いをもたらさない。

 

「災いをもたらす炎ではなく、恵みをもたらす太陽になりたい」

 

そう考えて生き続けてきた。

 

「他者に恵みをもたらし続ける限り、自らには生存意義がある」 

 

そう考えて生き続けてきた。

 

 

でもこのことは、一方で大切なものを炎に巻き込んでしまうことにもなる。

 

大切なものを守るため、必死になって世の中のために輝く。

 

しかし必死になりすぎた結果、その大切なものを失うという本末転倒。

 

高校時代、20代前半、そして21世紀に入ってすぐの頃。

 

私の人生って、その連続だったなと人生を振り返り可笑しくなった。

 

 

災いをもたらす炎になったら終わり。

 

炎は必ず燃え尽きる。

 

 

太陽になるための修行は、まだまだ続いているのかもしれない。