「ディカプリオは、ロバートレッドフォードを超えられるのか?」

1974年、ロバートレッドフォードが、ジャック・クレイトン監督、フランシス・コッポラ脚本で、ギャツビーを演じ、スターダムの地位を不動のものにした「華麗なるギャツビー」。

あの偉大なるギャツビーをディカプリオは超えることができるのかと、半ば否定的な臆測が流れているようだが、試写会を観た私なりの結論、


「これは、ディカプリオのギャツビーであり、超える超えないの問題では最早無い」


今回、試写会を見終わった後、もう一度ロバートレッドフォードのギャツビーを見返してみた。

1974年のギャツビーはたとえると戦前のアメリカ文学そのまま。

静かに、そして深く深くストーリーが展開していく。

しかし、ディカプリオのギャツビーは、あくまでも攻撃的に、挑発的にストーリーが展開していく。

それは、ディカプリオの放つミステリアスさでもあり、「ムーランルージュ」を撮ったバズ・ラーマン監督らしい、色鮮やかで華やかでそれでいて下世話で官能的な映像世界にある。


受付で3Dメガネを渡されたとき、「なぜ、ギャツビーで3Dメガネ???」と思ったが、観終わって、なぜ3Dメガネなのかという理由がよくわかった。

とにかく、ディカプリオの描くギャツビーが3Dの効果もあって、本当にミステリアスなのだ。

あまりにも孤高で、あまりにもベールに包まれたギャツビー。ともすると途中の場面で、そのミステリアスな部分が色あせてしまいがちな内容なのだが、ディカプリオのギャツビーは最後まで神秘に包まれながらも、ニックに見せる笑顔やデイジーに対する愛情表現など、どこまでも可愛らしく魅力的だ。

それだけでも、これは「超える超えないの問題ではない」と断言するのに十分な要素であろう。

そして、バズ・ラーマン監督が、1920年代の、いわゆる世界恐慌を迎える前の活況前夜のアメリカを見事に描いている。

どこまでもゴージャスで、享楽的で退廃的、それでいてヨーロッパの上流社会とは種類の異なった猥雑さ、下品さ、そしてヨーロッパ階級社会とは異なった、アメリカ階級社会の人々のマインドを非常に丁寧に描いている。

1920年代から30年代にかけて、日本でも潮流となった「エロ・グロ・ナンセンス」さが見事に表現し尽くされていた。

その映像表現が、ある意味映像にスピード感を与え、2時間20分という大作でありながら、まったく退屈することも眠くなることもなく、観客を引っ張り続けた。

ディカプリオ以外の俳優陣では、ジョエル・エドガードンのトムと、トビー・マグワイアのニックが良かった。

心からワクワクさせ楽しめる作品だったので、感謝の気持ちを込めて、封切り後、自腹で切符を買ってもう一度楽しもうと誓った。