2025/4/6

十善戒 慳貪

 

「苦」の人生をいかに生きるか。

「仏陀(ブッダ)は確かに「この世は苦である」といいましたが、亡くなる前には「この世は美しい。人間の命は甘美なものだ。」といっていました。

これは「苦であるがゆえに、そこに美しいものが生まれてくる」という仏陀(ブッダ)のひとつの悟りであったように思われます。

涅槃へ至る八つの道筋を指し示した「八正道」煩悩を消して真実の人生を生きるための方法ということから出てきたのが、先にふれた四諦であり、また八正道といった考え方です。

仏陀(ブッダ)の亡くなったあと、原始仏教が大乗仏教から生まれた六波羅蜜という考え方も含めていいでしょう。

在家信者が守るべきものとされた五戒などもそうでしょう。

五戒とは

  • 不殺生戒(ふせっしょうかい) 生き物をみだりに殺してはならない。
  • 不偸盗戒(ふちゅうとうかい) 盗みを犯してはならない。
  • 不邪淫戒(ふじゃいんかい) 道ならぬ邪淫を犯してはならない。
  • 不妄語戒(ふもうごかい) 嘘をついてはならない。
  • 不飲酒戒(ふおんじゅかい) 酒を飲んではならない。

の五つですが、これらを生活の中で習慣化して実践することが大事だという具体的な戒律です。

また仏陀(ブッダ)は精神を統一して雑念を払い、禅定の境地に入ることを説き、さらに日常生活の中で身につけていく智慧の重要性を説いています

この戒律と精神統一と智慧を仏教では「戒・定・慧の三学」と呼んでいるようですが、修行によってこの三つを身につけることで人間は「諸々の汚れから完全に解脱する」ということになります。

 

参考

この五戒律に次の五つの戒律が加わったものを十戒律と呼んでいます。

 

十戒律(五戒律も含みます)

  • 不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい) 他人の過ちや罪を言いふらしてはならない。
  • 不自賛毀他戒(ふじさんきたかい) 自分を誉め、他人をくだしてはならない。
  • 不慳貪戒(ふけんどんかい) 物おしみしてはならない。
  • 不瞋(怒り)恚戒(ふしんにかい) 怒ってはならない。
  • 不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい) 仏様の教えや仏法伝道の僧をくだしてはならない。

このように、正しい生活をして自分自身の完成に努めなければ、本当に人を救うことはできないということです。

 

ただ、誤解してならないことは、自分はまだ完成していない人間だからとても人を助け導くことはできない、という考えを持たないことです。

 

自分だけの生活に囚われてしまえば、返って自己の完成はできないのです。

 

人のために尽くすということも持戒の大きな要点ですね。

人のために尽くすことによってそれだけ自分も向上し、自分が向上することによってそれだけ人にも尽くせるようになる、この二つは無限に循環していくと思います」

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①真言宗の十善戒の次は、

不慳貪、

不瞋恚、

不邪見、

 

②「仏陀の教え」は、

不説四衆過罪、

不自賛毀他戒、

不慳貪戒、

不瞋(怒り)恚戒、

不謗三宝戒、

 

仏教において沙弥および沙弥尼(見習いの僧侶・小僧)の十善戒のもう一つもまた違う。

不著香華鬘不香塗身、

不歌舞倡妓不往観聴、

不坐高広大床、

不非時食、

不捉持生像金銀宝物

ただしこれについては単なる僕の興味である。

 

前回は両舌について述べた。

悪口と綺語と両舌は妄語を中心に円グラフの様に、

ハーモニーを形作っているような気がする。

それは恰もRGBの様に重なり妄語を彩っている様に見える。

 

RGB(またはRGBカラーモデル)とは、の表現法の一種で (Red) (Green) (Blue)の三つの原色を混ぜて幅広い色を再現する加法混合一種である。RGBは三原色の頭文字である。歴史的にはブラウンCRT)から始まり、現代では液晶ディスプレイLCD)や有機ELディスプレイOLEDの色の表現方法のひとつとして、またスマートフォンパソコンどの内部の画像再現に使われている。」ウィキペディア

 

512px-AdditiveColorMixing.svg.png

「加法混合の例。スクリーンに原色の光を投影すると、光が重なったところが二次色になる。三原色の光が適度な割合で混ざると白になる。」ウィキペディア

 

これらは上述の様に適度な割合になると、

方便として「シロ」となるが、

我々凡夫にはそんな事は出来ないので、

戒により近づかない事が確実の様だ。

 

では今回は慳貪である。

 

「慳貪(けんどん)

  • 仏教における慳(物惜しみをすること)と貪(貪欲なこと)をいう。 - を参照。
  • 無愛想なこと。または、無情・無慈悲なこと。つっけんどん。
  • 倹飩(けんどん)のこと。 - 倹飩を参照。」

 

「慳 (けん)(: mātsarya、マートサリヤ)は、仏教が教える煩悩のひとつ

ものおしみ[1]自分だけの利益を希求し続ける心のひとつの形で、財宝に耽着して人に施す心無い状態をいう。そのような心の人は、ただ蓄財せんと思う心にとりつかれてしまい、他人のことを考えることもない。

説一切有部五位七十五法のうち、小煩悩地法の一つ[2]唯識派の『大乗百法明門論』によれば随煩悩位に分類され、そのうち小随煩悩である。仏教の戒律の一つに十重禁戒があり、その第八番目が不慳法財戒(ふけんほうざいかい)、つまり法と財とを慳(おし)むことなかれ、という意味を指す[3]。」ウィキペディア

 

人間は200万年前に生まれ、

1万年前まで狩猟民族であったと言う。

その日ぐらしの常時空腹の生物だったが、

今から1万年前に農業を覚え、

食料を直ぐに食べずに蓄える事を覚え、

それにより貧富の差が生まれ、

今の僕たちに至ると言う。

おそらく慳貪の歴史もこの1万年前から、

ではなかろうか?

 

善良な民が慳貪に走る時、

その動機は、

家族の安心と、

家族が居なければ、

あらゆる未知の出来事への不安であろう。

誰もがそれを思い、

少しでも蓄えようとする。

それは想像力を持つ人間として正常な要求だ。

 

だが、蓄えとは何故か、

いくら余裕を持っても足りず、

いくら余裕を持っても、

その財の美しさにおいて不足だ。

財の美しさは恐ろしい。

美しさは限度を知らない。

美しさは慈しみを知らない。

善良な人が慳貪欲に惑わされるのは、

当たり前の事である。

いつしか慳貪は美しさを追求し、

余裕、蓄えを離れた目的に、

目標が擦り変わる。

 

例えば僕のいた某国では、

皆金の装飾品をその人の富の象徴として、

身体に見に付けていた。

結婚式では新郎なり新婦なりが、

どれだけの結納として、

金の鎖や宝石をいくら相手に渡すかが、

みんなの専らの関心事であった。

その事は結婚式のその日、

スピーカーによって村のみんなに吹聴される。

噂話や酒の肴に吹聴される。

僕は日本人なので、

本当のドン底の貧しさを経験した事が無く、

この文化に馴染みが持てず、

それでもその様な結婚式で、

それなりの借金と散財をした。

「何も無くても愛さえあれば」は幻想だった。

 

あいこトリップ

https://ameblo.jp/hellogoldlight/entry-12649818294.html

 

でも僕はこれをある時期から、

否定的に見る事は辞めた。

何故なら最近では某国人も、

あまり金の鎖を身に着けなくなったし、

特にイサンの人は基本が質素で、

考えているより知足安分だったからだ。

とは言え金を取り扱う金行は、

銀行の支店より数が多かったが。

考えてみれば身体に金を身に付ける人は、

寧ろ銀行が信じられないのだろう。

この国、そしてこの国の周りの国では、

そうゆう文化が当たり前であるし、

銀行は巨大な権力装置なので、

最後は自分しか信用できないのは最もだ。

だが身につけていれば、

どんな犯罪に巻き込まれるかもわからない、

と言うリスクもある。

 

そして僕の懺悔は、

その銀行の信用を失ったと言う現実である。

その自分自信の信用を失ったと言う、

現実である。

最早自分に対する自分の、

信用すら失った僕ではあるが、

僕は嫌な顔ひとつせず僕について来てくれる。

信用のないレムなどの皆様が、

嫌な顔ひとつせず、

僕をバックアップしてくれる。

そして何より仏様が、

僕を導いてくれる。

もう2度とな無明による過ちは許されない。

 

合掌

 

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