2023/10/29
お早う御座います。
日曜日は法句経、
ダンマパの写経です。
全部で26章ありますので、
一章一章写経し、
と言ってもiPadにインプットし、
①写経 投稿一周目
②自分の極私的現実に照らし合わせ懺悔する。
投稿ニ周目以降は理解納得するまで考え、
次の章へ進みます。
を繰り返します。
どうかお付き合いください。
「法句経(ほっくぎょう)、ダンマパ(巴:Dhammapada
)は、仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形(アフォリズム) で伝えた、韻文のみからなる経典である。「ダンマパダ」とは、パ ーリ語 で「真理・法(巴: dhamma)の言葉(巴: pada)」という意味であり、伝統的漢訳である「法句」とも意味的に符合する[1]。」Wikipedia
朗読 ブッダの真理の言葉
第2章 「励み」 解釈編③ 猩々蝿
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賢者が清栄修行によって
怠惰を退ける時には
知恵の高園に登り
自らは憂いなくして
他の憂いある愚かな人共を見下ろす
山上に居る人が
地上の人々を見下ろす様に
怠り怠けている人々の中で、
一人努め励み
眠っている人々の中で
一人良く目覚めている思慮ある人は
早く走る馬が
足の鈍い馬を
抜いて駆ける様な者である
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このあたりが、
最近よく実感し尚且つ、
理解に苦しむ点である。
この数ヶ月の間僕の信仰は、
ただ奇跡をお願いすると言う立場から、
仏教に帰依していこうと言う立場に、
大きくシフトした。
頭を丸め、
眉を剃った。
毎朝、共用の部屋の洗面所を、
アルコールで拭き清めた。
コロナ対策のマスクに、
二日置きに、
日々勤行の仏様の名前と真言を、
マジックで写経して、
既に2か月になる。
勤行の正確性を高め、
お供えを含めた荘厳に日々、
気をつけている。
全ての行動基準は、
十善戒を身近に起き、
それを元に、
会話、
発する言葉に気をつけて、
生活をしている。
「十善戒(じゅうぜんかい)とは、仏教における十悪(
十不善業道)を否定形にして、戒としたもの。比丘向けの戒であり [1]、在家者には五戒、八戒が存在する。内容は、三業( 身口意)にそれぞれ3-4-3で対応するようになっている。」
〜中略〜
『十地経』(『華厳経』十地品)第二「菩薩住離垢地」
で勧められる、 菩薩としてなすべき十の良いことをすることの戒め。
- 身業
- 不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺さない。
- 不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを自分のものとしない。
- 不邪淫(ふじゃいん) 不倫など道徳に外れた関係を持たない。
- 口業
- 不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。
- 不綺語(ふきご) 中身の無い言葉を話さない。
- 不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない。
- 不両舌(ふりょうぜつ) 他人を仲違いさせるようなことを言わない。
- 意業
- 不慳貪(ふけんどん) 激しい欲をいだかない。
- 不瞋恚(ふしんに[2]) 激しい怒りをいだかない。
- 不邪見(ふじゃけん) (因果の道理を無視した)誤った見解[3]を持たない。
Wikipedia
かつて、
いや今も、
僕は誰よりも弱い男なので、
少しでも自分の考えに、
そぐわない事があれば、
それを攻撃するか、
それを排除するか、
自分への偽りの元に迎合した。
しかし今は全ての行動基準が、
仏様の教えであり、
十善戒であるので、
それを守れない人との会話を辞め、
所謂、魔を感じさせる人には、
近づかない事にした。
静かに無視することにした。
皮肉は無だ。
勤行に従って、
1日と16日は肉魚卵を辞め、
それを守るため食事を抜いたところ、
物議を醸し、
心配をかけ、
今後前もってメニューをチェックし、
前もってお知らせすることとした。
この事により、
どんな小さなショウジョウバエも殺さず、
彼が僕の手に止まったならば、
彼が立ち去るのを待った。
毎朝、
自らのその不浄で、
尚且つ生きる為に必要な性器を清拭し、
毎朝新しいオムツで包んでいる。
当然のことではあるが、
病気後、自慰行為は行なっていない。
「意」行に至っては、
人を怒鳴らないと言う誓いを立てて、
もしそれを破った場合、
食事を抜くと宣言した。
落ちているゴミは、
障害者として可能な範囲で拾い上げ、
それをしなかった時、
深い後悔を覚えた。
隣に寝ている、
寝たきりのおじいさんの、
時々発する言葉に留意し、
カーテンや、
その様子に気を配っている。
勤行の音量は、
弘法大師の秘蔵記に従って、
蓮華念誦、
金剛念誦を心がけ、
自分に聞こえる最低限の音を心がけている。
そして、
その結果として、
今感じているのは、
無量の喜びだ。
その結果として、
今感じているのは、
エスカレートする、
精進への欲求だ。
その結果として、
地上で悩み苦しみもがく人を、
山上から眺める喜びだ。
その結果として、
悩ましいのは、
これでいいのかと言う思いだ。
多分、
これから先の章で仏様が、
説かれている事だと思うが、
周りにこれだけ苦しんでいる老人が居て、
今までやりたい放題、
放逸に耽ったエピキュリアンであった僕が、
今ここに新たな信仰の喜びを感じている。
こんな事があっていいのかしら?
僕は何処へ行くのでしょうか?
合掌
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