仏教での愛と慈悲②

(愛を語る第8歩)

不定期投稿

 

前回、仏教の12因縁のスライドを投稿した。

僕は、この12因縁のスライドを、脳出血で倒れる前に作っていて、愛に対してこの様な体系的な考え方を冷静に考えられる仏教に感動した。だが、その様に感動しながらも、その時は元気だったので、食生活など改める事も無く、これもまた因縁で倒れてしまった。障害者一級になって初めて本当に理解したのは、(皮肉の様に見えるかもしれないが全く否で)、仏様の慈悲で一命を取り止め、日々悟りを楽しむ事が出来る毎日の生活に感謝したい。

 

このページは、ウィキペディアで愛を勉強し、

宗教毎に愛の認識の違いを理解し、

僕が勘違いしてきた「愛」の本質に近づく為の投稿である。

 

preman, sneha①

「preman, snehaは、他人に対する、隔てのない愛情を強調する。子に対する親の愛が純粋であるように、一切衆生に対してそのような愛情を持てと教える。」Wiki

 

僕は、今回の病気で明らかに母親に殺されかけた。母は2週間僕が倒れている間中、食事だけを僕に作った。そして2週間後、流石に僕も最後の生命力を振り絞り母親を怒鳴りつけ、彼女に電話を持って来させ、自分で救急車を呼んだ。この様な事を母にされるとは思いも寄らなかったが、この中に純粋な母の愛を見いだすとすれば毎日の食事だろう。母は食事の準備は、欠かさなかった。あれが無ければ、死んでいた。自分で動けなかったのだから!

 

preman, sneha②

「この慈愛の心を以て人に話しかけるのが愛語であり、愛情のこもった言葉をかけて人の心を豊かにし、励ます。この愛の心をもって全ての人々を助けるように働きかけるのが、の理想である。」Wiki

 

母は食事だけを与えて、他の事をしなかった。それは、後日、人に言わせると、母が呆けていたからだと言う。

流石に僕の意識が戻ったから救急車を呼んだが、もし呼べなかったら、どうなったのだろう。それは死しか無かったのではないか?その時点で、右目が見えなかったのだから。

病院で回復に向かい、母が見舞いに現れて言ったものである。

「命があって本当に良かった!」と。そこに一抹の悪意も感じなかった。

こうして書いていて思う。僕のこの顛末は、まるで仏教説話の様な話だが、全てノンフィクションなんだよな、と。

 

preman, sneha③

「仏教でも人のことを深くおもい大切にする、という概念はある。ただし「tRSNaa」や「kaama」の中国語での翻訳字として「愛」の字を当てたため、別の字を翻訳字として当てることになったのである。」Wiki

 

preman, sneha④

「仏菩薩が、人々のことを思い楽しみを与えることを「maitrī」と言うが、その翻訳としては中国語では「慈」の字を、人の苦しみを取り除くことkaruṇāには「悲」の字を用い、それらをあわせて「慈悲」という表現で呼んだ。」Wiki

 

マイトリーとかカルナーとか言う言葉は、日本人には馴染みが薄いかもしれないが、僕の居た上座部の某仏教国では、人の名前に多かった。

 

preman, sneha⑤

「特に大乗仏教では、慈悲智慧と並んで重要なテーマであり、初期仏教の段階ですでに説かれていた。最古の仏典のひとつとされる『スッタニパータにも慈悲の章がある。

 

『あたかも母が己の独り子をば身命を賭けて護るように、一切のきとしいけるものに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし(『スッタニパー』[20][21])』

 

一切衆生に対する純化された想い(心)を慈悲という。それは仏だけでなく、普通の人々の心の中にもあるものだと大乗仏教では説く。」Wiki

 

こうして考えると、僕の母は僕の為に僕の死を願っていたが、ギリギリのところで慈悲心が働き、僕の要求に応じ、救急車を呼ぶ為の電話を持って来たと考えるべきなのかもしれない。それが、慈悲を持つ母の息子に対する愛であったのだと感じるのが、僕自身の慈悲を感じる心なのでもあるかもしれない。

 

preman, sneha⑥

「観音菩薩(や聖母マリア)は、慈悲の象徴ともされ、慈悲を感じることができるように表現されている。」Wiki

 

合掌

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